モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは、全日本GT選手権(JGTC)を戦ったRE雨宮のRX-7です。
* * * * * *
今もなお多くのファンを持つ、ロータリーエンジン搭載のピュアスポーツカー『マツダRX-7』。RX-7のFD3S型は、かつて全日本GT選手権(JGTC)からスーパー GTのGT300クラス(1995年はGT2クラス)に1995~2010年まで、実に16年もの間参戦し続けた。
この16年間、GT300クラスをRX-7のFD3S型ひと筋で戦い続けたのが、ロータリーチューンの“神”、雨宮勇美が率いるRE雨宮だった。RE雨宮がGTに初参戦したのは1995年。この年は、GTが正式に発足してまだ2シーズン目という年だった。GTアソシエイションはシリーズを盛り上げるため「より多くの車種バリエーションを」という目論見のもと、RE雨宮に参戦を打診。RE雨宮のGTでの戦いがスタートした。
RE雨宮は参戦にあたって、本業であるチューニングショップの業務を優先するため、すべてをRE雨宮が担うのではなく、RE雨宮はエンジン、コンピュータ、エアロを担当。車体は、レーシングガレージであるRSファインが製作するという体制でのエントリーとなった。
参戦初年度である1995年の車両は、JSSやチューニングカーの延長線上と言えるようなマシンだったが、参戦2戦目の仙台ラウンドでは初勝利をマーク。その後も第4戦富士から最終戦MINEまで3戦連続でポールポジションを獲得する。3回目のポールからスタートしたMINEラウンドではシーズン2勝目を記録。初年度から高いポテンシャルを発揮したのだった。
幸先のいいスタートを切ったRE雨宮だったが、1996年は未勝利に終わってしまう。メーカーの息がかかったライバル車の登場により、勝利をマークすることができなくなったのだ。そこで、1997年にはエンジンをそれまでの2ローター13Bから3ローター20Bへとスイッチし、ポテンシャルアップを図った。
しかし、それでも勝利を挙げることができず。RE雨宮は1998年の第3戦仙台からニューマシンを投入する。このマシンは、マツダスピードとの共同開発でサスペンションアームが作り直され、ジオメトリーも最適化するなど足まわりが徹底的に見直された車両だった。
その効果もあり1998年は速さを見せたものの、シリーズ戦での表彰台は一度のみ。1999年に向けてさらなるポテンシャルアップが望まれた。
1999年には一時プロジェクトから離れていたRSファインと再びタッグを組み、1998年にマツダスピードとともに開発した車両を改良。ボディ補強が行われたほか、サスペンションのジオメトリーもよりコーナリングスピードを求めたものへと変更した。
このアップデートは奏功し、1999年は未勝利ではあったものの、シリーズ戦では二度の2位表彰台を獲得。そのほかのラウンドでもコンスタントにポイントをゲットし、チャンピオンを争いにも絡んだ。
こうして再び成績が上向き始めたRE雨宮のRX-7によるGTチャレンジは、2000年代へと突入していく。そしてこの2000年代には大きな車両アップデートと栄光が待ち受けているのだった(Part2に続く)。