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アメ車? 日本車?? 謎多き広島製「日本フォード」の車種を振り返る

 フォードと言えば、言わずと知れたアメリカの自動車メーカーであり、現代の自動車産業の原点とも言われる「フォード モデルT(通称T型フォード)」をリリースしたメーカーとしても知られている。

 残念ながら日本では2016年に正規販売が終了してしまっているが、一部の輸入業者がマスタングやエクスプローラー、フォーカスといった現行モデルを新車並行で販売しているなど、根強い人気を誇っているのだが、それらとは全く毛色の異なる、広島製の「日本フォード」を覚えているだろうか?

文/小鮒 康一 写真/マツダ

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■1979年の資本提携がきっかけ

現在のマツダR&Dセンター横浜。一般ユーザー向けのイベント開催地となることも多く、マツダファンの聖地ともなっている

 そもそも「日本フォード」とは、1925年に神奈川県横浜市緑町(現在のみなとみらい)に設立されたのが始まりで、1905年から日本へ車両の輸出をスタートしていたフォードが、アジア最大の経済大国となっていた日本を重視したことがきっかけだった。

 1927年には神奈川区守屋町にアジア圏では初となる製造工場を建設し、フォード車のノックダウン生産をスタートしている。ちなみにこの工場の跡地に建っているのが現在の「マツダR&Dセンター横浜」である。

 そんな日本との繋がりが深かったフォードは1979年にマツダと資本提携を結び、1982年にフォード専売の販売チャンネルである「オートラマ」を設立。そこで販売される車種の一部としてマツダ車のバッジエンジニアリング車、つまりOEM車として「日本フォード」の車種が販売されたというワケだ。

 ちなみにすべてがマツダ車のOEMというわけではなく、エクスプローラーやマスタング、モンデオといった現地生産車や、フェスティバのようにマツダ車としては販売されなかった(日本では)モデルも存在している。

 それではそんなフェスティバから、日本フォードのモデルを振り返ってみよう。

■フェスティバ

 オートラマ初の専売モデルとして1986年に登場したフェスティバは、オートラマブランドのエントリーモデルというポジションも担っていたが、実用一辺倒ではなく、欧州車的なルックスやキャンバストップ仕様をラインナップするなど差別化を図ったことが功を奏して、オートラマを代表するヒット作となった。

 なお初代フェスティバは欧州では「マツダ121」として販売されただけでなく、韓国では起亜が現地生産をしており、「起亜プライド」として販売されていた。

 起亜では5ドアハッチバックや4ドアセダンタイプも生産されており、前者は「フェスティバ5」、後者は「フェスティバβ」として輸入され、オートラマで販売されたのだが、如何せん左ハンドルのままだったこともあり、販売は低迷した。

 1993年には2代目フェスティバが登場するが、初代とは打って変わってクーペ風のスタイルとなったことで後席やラゲッジスペースの狭さが災いし、販売は低迷。

 クーペスタイルにも関わらず、DOHCエンジンがラインナップから消えるといった謎采配も影響し、わずか3年で初代デミオをベースとした「フェスティバ・ミニワゴン」にバトンタッチすることとなってしまった。

■レーザー

ファミリアの面影を強く残す初代レーザー。ファミリアと同じくターボモデルも追加されている

 1982年に日本での販売がスタートしたレーザーは、4代目ファミリアがベースとなり、3ドア&5ドアのハッチバックと4ドアセダンというラインナップ。2代目モデルまではファミリアの面影を残すスタイルとなっていたが、3代目になると、2ドアクーペと呼ばれたレーザー専用のボディを設定した。

 また4代目では、ファミリアNEOをベースとした3ドアハッチバックモデルにアクの強い丸目ヘッドライトを採用して更なる差別化。ファミリアNEO自体は不評で1996年のマイナーチェンジ時に一般的な3ドアハッチバックに改められたが、レーザーはNEOのボディのまま最後まで販売が続けられた。

 そして1998年には最後のファミリアがベースとなった5代目にフルモデルチェンジ。ここで「レーザー・リデア」とサブネームが付けられ、セダンとワゴンの2タイプのラインナップとなったが、ベースのファミリアより早い2000年春に姿を消している。

■テルスター

 レーザーとともにオートラマのデビューと共にリリースされたテルスターは、当時のカペラ(4代目)がベースとなっており、第3回の日本カー・オブ・ザ・イヤーではカペラと共にイヤーカーに選出されている。

 1991年に登場した3代目モデルではベースのカペラが消滅したため、後継車種のクロノスがペースとなって3ナンバーボディとなった。

 クロノスには5ドアハッチバックが設定されていなかったが、テルスター伝統の「TX5」と呼ばれる5ドアハッチバックは継続設定。結局このボディは翌月発売されたアンフィニMS-6に流用されている。

 当のクロノスは3ナンバー化したことが災いして販売が低迷したため、1994年に5ナンバーサイズのカペラが復活。

 テルスターもそれに倣ってフルモデルチェンジを果たすが、テルスターのキャラクターには3ナンバーボディが合っていたのか、新型カペラに伝統の5ドアがなかったからか、旧型も併売されたため、この代に限り「テルスターII」として販売された。

 1997年には再びカペラがフルモデルチェンジを果たしたことで5代目へとなり、車名もテルスターへと戻されている。この代でも5ドアハッチバックは存在しなかったが、引き続きカペラワゴンをテルスターワゴンとして販売することで、最後まで5ドア車をラインナップするという伝統を守り続けたのだった。

■スペクトロン/フリーダ/イクシオン

ボンゴワゴンベースのスペクトロン。ちなみにボンゴバンはJ80、ボンゴブローニイバンはJ100として販売されていた

 多人数乗車を可能とするワンボックス&ミニバンもしっかり日本フォードとしてラインナップ。まず1983年に登場したスペクトロンは、3代目ボンゴワゴンをベースとしたもの。乗用車シリーズほどエクステリアに差異はなかったが、それが逆に輸入車らしさを醸し出していた。

 そして1995年にはセミキャブオーバータイプのボディを持つボンゴフレンディをベースとしたフリーダが登場。ボンゴフレンディにも採用されていたポップアップルーフの「オートフリートップ」はフリーダでも人気の装備となっていた。

 そして最後の日本フォード車として1999年5月にリリースされたのが、コンパクトミニバンの初代プレマシーをベースとしたイクシオンだ。

 基本的なデザインはプレマシーのままであるが、フロントバンパー全部までをカバーする樹脂モールやシンプルなデザインとなったテールランプなどで欧州フォード感を醸し出していたが、わずか3年ほどで日本フォードの終焉と共に姿を消すこととなっている。

 結局、日本フォード車は段階的に輸入フォード車に置き換えられるようになってラインナップから姿を消し、2003年にはフォード店の取り扱い全車が輸入フォード車となっていった。

 その後もマツダとフォードの関係は続いていたが、2015年までにフォードが所有するマツダの株式を全て売却。これによって1979年から続いた資本提携も解消され、日本フォード車は全て過去のものとなったのである。

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