現在はその人気が陰ってしまっているセダンだが、かつては「あのクルマに乗りたい!」と心焦がした読者も多かったのではないだろうか?
バブル期に「ハイソカー」がもてはやされ、マークII3兄弟が合計で月販3万台はザラなんていうのも語り草。さらには、それまでになかった類いの高級車が続々と出現したのも思い出される。今回は、そんななかから記憶に残るセダンについて振り返ってみたい。
文/岡本幸一郎
写真/日産、トヨタ、ホンダ、マツダ
■「元気な日産」を勢いづけた立役者『日産 シーマ』
バブル期といえばまっ先に思い浮かべるのは、「シーマ」をおいてほかにない。最近、有名女優さんが愛車をレストアして話題になったばかりだが、現役当時だけでなく、こうしてのちのちまで存在感を発揮しつづけている、”持ってる”1台だ。
登場はバブル景気がクライマックスを迎えつつある1988年1月。セドリック/グロリアのさらに上という位置づけで、法人向けのプレジデント以外の日産車で初めて3ナンバー専用ボディが与えられて実現した優雅なスタイリングは、セド/グロとも他メーカーの高級セダンとも一線を画していた。ほどなく「元気な日産」と称されるようになる日産の勢いは、シーマの登場で加速度的にそれが増したといえる。
最上級の「3.0タイプIIリミテッド」の価格が510万円。500万円超のクルマというのは、当時はものすごく高価に感じられたものだ。途中で消費税が導入された際に物品税が廃止されていくらか安くなったことや、マルチビジョンやデジタルメーターなどのハイテク装備がオプションで選べるようになったことも記憶している。
当時はかなり大柄に感じたものだが、全長は4890mmで全幅も1770mmしかなく、実はいまどきのEセグよりもずっと小さいことにも驚く。
それになんといってもシーマが話題となったのは、その強烈な速さ。255psを発生する3.0L V6ターボのVG30DETは、乗る者を病みつきにさせるような魔力を持っていた。
リアを沈ませフロントを浮き上がらせて、まるで離陸するかのように加速するさまが深く印象に残っている。やがてエアサスが壊れて車高ベタベタなクルマを見かけるようになったことも思い出すわけだが、ご愛敬ということで。
高価なクルマながら時代の追い風もあって売れ行きは上々で、「シーマ現象」という言葉まで生まれたのも有名な話。現役4年間の販売台数は13万台近くに達したというからたいしたものだ。
実は筆者、初代シーマにはなぜか縁がなく、まだ乗ったことがない。現行だった頃はまだ大学生で、人口3万人あまりの筆者の地元では、発売当初にはどこどこの誰々が買ったとウワサになっていたほどで、父も欲しがっていたのだが、弟が大学受験に失敗して浪人することになり、予備校の学費捻出のためガマンすることになった。
さらに、筆者が業界に入った頃にはシーマはすでに2代目になっていたので、乗る機会に恵まれずじまい。有名女優さんの愛車、乗せてもらえないかな~…(笑)。
■超なめらかな走りに感銘を受けた『トヨタ セルシオ』
そんなシーマ現象を尻目に、もちろんトヨタも手をこまねくことはない。1989年8月にクラウンにV8が加わった2カ月、さらにすごいのが現れた。「セルシオ」だ。
ボディサイズはシーマよりもさらにひとまわり大きく、エンジンは件のクラウンにも搭載された4.0L V8の1UZ-FEを積む。A仕様が455万円、世界初のピエゾTEMSを装備するB仕様が530万円、エアサスを搭載した売れ筋のC仕様が550万円、豪華仕様の同Fパッケージだと620万円という価格もインパクトがあった。
セルシオにはけっこう頻繁に乗る機会があったのだが、とにかくあの超静かで超なめらかな走りには乗るたび感銘を受けた。日本車初のオプティトロンメーターの美しい輝きにもホレボレした。これまた高価にもかかわらず、また現役中にバブルが終焉を迎えたにもかかわらず、1994年秋にモデルチェンジするまでに累計11万5000台超が販売された。
そんなセルシオは、新たに立ち上げたレクサスブランドのフラッグシップとしても北米で売れまくり、大成功を収めた。それまで欧米のプレミアムブランドが独占していたアメリカの高級車市場でも、クルマさえよければ通用することを知らしめた。トヨタの目論見は見事に当たったのだ。
かたや日産は、インフィニティブランドの頂点に据えたQ45を日本にも投入した。シーマがあるのに? と思ったものだが、セルシオとは逆で奇抜なデザインや男らしい走り味などに、どちらかというと当時の自動車メディアでは、Q45のほうが高く評価されていた記憶があるのだが、いまとなっては、やはり初代セルシオは偉大だったという認識が大方なのは周知のとおりだろう。
■直列5気筒エンジン搭載に驚いた!『ホンダ インスパイア』
バブル期にセダンで名を上げたといえば、まさしくホンダもそうだ。主力のアコードと最上級のレジェンドの間を埋めるべく、1989年10月にホンダのハイソカーとして送り出された「インスパイア」が姉妹車のビガーとともに独自の存在感を発揮していたのを思い出す。
やけにフロントオーバーハングが短くてホイールベースが長いと思ったら、直列5気筒エンジンを縦置きにしてフロントミッドシップにしていたから。1990年代にホンダが上級車に用いた独特のレイアウトを最初に採用した車種でもある。
途中でボディを拡大した3ナンバーモデルが追加されると、販売もそちらがメインになり、さらに売れ行きの勢いが増し、初代インスパイアだけで累計20万台あまりも売れた。当時ホンダのイメージアップに大きく貢献した1台に違いない。
■ほかのメーカーとは一線を画したおしゃれさ『マツダ センティア』
あとは、バブルが一段落した1991年5月にマツダが送り出した「センティア」もなかなか異彩を放っていた。
数的にはヒットというほど伸びなかったが、とにかくスタイリッシュだと思ったものだ。
幼少期からどうしてマツダだけこんなにカッコいいクルマが多いんだろうとずっと思っていて、ほかの日本のメーカーとは雰囲気が違うと感じていたのだが、センティアもまさしくそうだ。外観がオシャレなだけでなく、インテリアもほかの高級セダンとは別物で色気があった。4WSの採用も話題になったものだ。
そういえばバブル期にちょうど大学生で就職を控えていた筆者のもとに、頼んでもいないのに大量の新卒採用の資料がたびたび送られてきたことを思い出す。なかでも最も人集めに力を入れていたのがマツダという印象で、いろいろお誘いの案内が個別に届いていたのを覚えている。ちょうど5チャンネル展開が取り沙汰された頃の話だ。
話をセンティアに戻すと、モデルチェンジした2代目は、なんだか普通の保守的なデザインになったのが残念でならなかった。そういえばマツダはアマティを出すといううわさもあったけど、結局実現しなかった。
思えば、あくまで個人的に感じたことだが、ここで挙げた全車どれも2代目がイマイチだ。セルシオはコストダウンがミエミエだったし、シーマもパッとしなくなったし、やっぱりQ45は予想どおりシーマと共通になった。
インスパイアもセンティアも2代目ですっかり存在感が薄れてしまった。むろん時代が時代ではあるわけだが、初代がすごいと2代目は難しいということには違いなさそうだ。
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