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とうとうロシアが欧州で戦争を開始した。相手はウクライナであり、しかも当初予定されていたよりもはるかに大規模な侵攻を開始したこともあって、国際政治の専門家たちの間でも衝撃が走っている。

3月4日、キエフ郊外のイルピン市で砲撃で火災の民家の前を横切る市民。民間人の犠牲者も増加、120万人以上が国外に避難した(写真:AFP/アフロ)

戦争の行方を見通す3つの要素

前回の本稿でも触れたように、2月24日の早朝に始まった今回の戦争によって、ロシアという凶暴な「グリズリー」が、裏庭でバーベキューパーティーを開いていた欧州の人々の間に乱入するという事態が実現してしまった。

本稿を執筆している時点ではまだ本格的な「戦争」(ロシアは特殊な軍事作戦と言っている)が始まってから1週間しか経っていないため、今後の見通しは不明のままだ。

だが、すでに海外の優秀な専門家たちが詳細は「初期の分析」を公表しており、それらをいくつか読んで気づかされたことがある。日本ではあまり注目されることのない分析だが、あらゆる戦争に共通する3つの要素に注目している。以下、それぞれについて説明していきたい。

1. プーチンの認識と現実の「ギャップ」

プーチン大統領(ロシア大統領府サイト)

第一が、今回のプーチン大統領の狙いと、その軍事作戦の間に大きなギャップがあると指摘するものが多いことだ。

具体的には、プーチン大統領が今回のウクライナ軍の抵抗を完全に過小評価しており、2003年のイラクにおけるアメリカ軍のように、もしロシア軍の部隊が侵攻すれば、現地住民から「解放者」として歓迎されるはずだと勘違いしていたという報道もある(参考:FNN プライムオンライン)。

ところが実際は、ロシア軍側の準備や作戦の稚拙さから、南部の沿岸部や東部の地域を除いて、基本的に第一波となる攻撃はウクライナ側によってかなり持ちこたえられたと見てよい。

プーチンが今回の軍事作戦で何を狙っていたのか、本当のところは専門家でもわかっていない。伝えられるところによれば、ロシアはわずか4日間の作戦で主要都市を陥落させて、ウクライナ政府のトップたちを斬首し、首都キエフに傀儡政権を設立するつもりだったと言われている。

また、プーチン大統領自身も周りの思想性の強いアドバイザーたちに影響されており、いわゆる「反動保守派」の思想に傾き、「西側諸国は人と動物の間の結婚を合法化しており、ウクライナの指導者はヒトラーと同じくらい悪人であり、同国の民族主義者たちは人間以下(sub-human)の存在だ」と考えているという報道もある(参考:NYTimes)。

だがこのような世界観に基づいた軍事作戦は、すくなくとも第一波では頓挫した。そもそもウクライナ占領という政治目標は壮大すぎて、実際のロシア軍の兵力とマッチしていなかったからである。端的にいえば、プーチン大統領はそもそも不可能なことを軍に求めていたのだ。

2.「戦争の霧」(fog of war)を軽視したロシア

第二に、「戦争の不確実性」が挙げられる。

たとえば今回のロシアによる軍事作戦は、ウクライナ側による想定外の強い抵抗によって作戦の変更を余儀なくされている。これは戦争においてキャスティングボードを握る可能性は自分たちだけでなく、相手にもあることをロシア側が理解できていなかった、もしくは過小評価していたことに一つの原因がある。

戦いというのは自由意志を持った相手、つまり殺されまいと必死になっている相手とのぶつかり合いだ。いくらロシアが戦力面で圧倒的に有利な状態であったとしても、ウクライナ側もただで殺されるわけにはいかない。また、ロシア側にも予期せぬアクシデントや負傷、さらには通信の連携の失敗なども出てくる。いわゆる「戦争の霧」(fog of war)というものだ。闘う者同士の二者関係が複雑になるため、状況も流動的になり、戦況は誰にも読めなくなる。

  「誰もがプランを持っている。アゴにパンチを食らうまでの話だがな(Everyone has a plan, until they get punched in the mouth)」

そう述べたのはボクシングのヘビー級元世界チャンピオンである、マイク・タイソンだが、戦争はこれと同じで、やはり「出たとこ勝負」なのだ。

このような戦争の力学を知っている専門家は、決して「次はこうなる」と断言できないし、逆に断言している識者がいるとすれば、戦争を本気で研究したことのない素人だとも言えるのだ。

3.「自国を守るものの士気と決意」が決定打

第三に、「士気」の問題がある。これは最も強調すべき要素であり、戦争において根本的なものでありながら、日本の専門家はあまり注目しない点である。

3月4日、リヴィウ郊外で機関銃AK-47の使用法を学ぶ民間人の女性(写真:AFP/アフロ)

たとえばイギリスの「戦争学」(war studies)の権威であり、長年ロンドン大学のキングス・カレッジの教授を務めた経験のあるローレンス・フリードマンは、今回の戦争開始直後に以下のような分析を書いている。

〈自国を守る者の士気と決意は、侵略を企てる側の士気や決意より高くなる傾向があり、特に企てる側がなぜ侵攻するのか分かっていない場合は、この傾向が強まることを我々は再認識させられた。

ウクライナ人が本気で国を守ろうとしていることや、忍耐力があることも分かった。彼らはロシアに蹂躙されてはいないのだ(参考)〉

ここで注目していただきたいのは、この「自国を守る者の士気と決意」という箇所だ。

今回の一連の報道をご覧になられたみなさんの中には、ウクライナのゼレンスキー大統領がSNSなどを通じて国民に

我々は全員(キエフ)にいる。我々は独立と国を守るためにここにとどまる

と語りかける姿勢に胸を打たれた方々も多いと思う。ウクライナは軍事面で圧倒的に不利な状況にあるが、国民や兵士には「祖国を守る」という大義があるのだ。

キエフにとどまることを表明するゼレンスキー大統領(Facebook)

ウクライナという国は、国土のサイズでは「小国」とは言えないが、それでも軍事力ではロシアと比べて圧倒的に不利な、吹けば飛ぶような状態だ。その国が、西側諸国(NATO)の助けを得られない状況で、孤軍奮闘している。

一方、ロシア軍の兵士の捕虜の中には、今回の作戦の目的をあらかじめほとんど知らされず、演習だと行って突然連れてこられたと証言している者もいる。士気には大きな開きがある。

ウクライナの「戦う姿勢」で高まった対ロ批難

さらに特筆すべきは、ウクライナ政府が「義勇兵」を呼びかけており、国外で働いている同国人たちに帰国して武器を持って戦うように呼びかけているという実態だ。

これは「命が大事」という現在の日本で教育されているものとは正反対の、国家のための究極の「犠牲」や「英雄的な行為」を求めるものであり、だからこそ世界の人々に感動を与えているのだ。

去年の8月に米軍が撤退したときに、アフガニスタンのガニ大統領をはじめとする首脳たちは大量の資金を持ってさっさと国外に亡命したが、ウクライナのゼレンスキー大統領は首都に残って陣頭指揮をしているだけでなく、なんと政敵であったポロシェンコ前大統領までが亡命先のポーランドからわざわざ帰国し、国民に対して武器を手にとって戦うよう呼びかけている

キエフの独立記念碑(DmyTo /iStock)

端的にいえば、ウクライナ人は名誉を重んずる「戦士」(warrior)となっている。だからこそ、ロシアの衛星国を除いた国連に所属するほとんどの国が、 国際法への違反という法的な面だけでなく、人道的・感情的な面から、ロシアに対する非難決議に賛成したのだ。

このような見方は「昭和の軍国主義的な考えだ」と感じる方もいるかもしれない。だが今回のウクライナ国民や政府首脳たちが見せた「自国のことは自国で守る」という姿勢は、「士気」や「決意」のように数値化できないものだが、国際政治を動かす要素として見逃すことはできない

クラウゼヴィッツが指摘した戦争の「三位一体」

かつて切手にも肖像画が採用されたクラウゼビッツ(KenWiedemann /iStock)

以上の3つの要素は、実は戦争や戦略を研究する人々の間では古典的な扱いのクラウゼヴィッツの『戦争論』の中で指摘されているものだ。

ドイツ帝国が誕生する前の時代を生きていたこのプロイセンの軍人(1780〜1831年)は、戦争に必須となる3つの構成要素に「驚くべき三位一体」と名付けて、以下のように説明している。

  1. ​​第一に、そこには、その本来的性格である暴力性、盲目的な自然的衝動とみなすべき憎悪および敵愾心がある。
  2. 第二に、蓋然と偶然の働きがある。それは、戦争を一つの自由な精神的活動たらしめる。
  3. 第三に、戦争は、政治の道具としての従属的性質をもっている。これによって戦争は、もっぱら理性の活動舞台となる。

これだけでは実に難解なものに聞こえるが、英語圏のクラウゼヴィッツ研究ではこのような3つの要素はそれぞれ、

  1. 「国民」が担当する「情熱
  2. 「軍隊」が担当する「チャンス」
  3. 「政府」が担当する「理性

の形をとって表現されるとしており、このうちのどれ一つの要素を無視しても戦争は理解できないとしている。

そして本稿で強調した「士気」は、1の「情熱」にあたる部分であることは言うまでもない。情熱がなければ名誉もなく、犠牲もなく、「戦士」もなく、大義もないのである。

「戦争は絶対悪」を超えた議論を始めよう

日本では第二次世界大戦での敗北によって「戦争は絶対悪」という倫理的な前提から抜け出すことができず、とりわけこのような戦争の機能的な面についての学術的な研究はなされてこなかった。

つまり戦争そのものを、『戦争論』を使って分析しようとはしてこなかったのだ。

ところが我々はいまや隣国であるロシアが、欧州正面で世界大戦を開始しようかという本格的な戦争状態に突入している。

戦争という現象を正面から見つめ、とりわけクラウゼヴィッツが指摘したような「国民」によってあらわされる情熱や士気、それに犠牲のような要素を、日本の今後の安全を考える際に注目せざるえない時代がついにやってきたのではないだろうか。