だが、監督としていきなりのプロ野球界復帰の理由とは何だろう。本誌の取材で明らかになったのは新庄家の意外なルーツと、横領事件を巡っての、母との葛藤。現役引退後のバリ生活から球界復活を決意させた和解と約束、そして闘病中の姉への真摯な思いだった。
新庄は20年春の『直撃!シンソウ坂上SP』(フジテレビ系)で、こんな心情を吐露していた。
「姉ちゃん、います。難病なんですよ。歩くと筋肉がグーッと萎縮しちゃう。で、真っ黒に肌がなる体になってしまって……このプロ野球を目指すというのは、姉ちゃんにも見せたいっていうのもあるんですよ」
監督就任の話が持ち上がる以前に、プロ野球のトライアウト(入団テスト)に挑戦する真意を語るとき、そのきっかけが、難病と闘う2つ年上の姉の存在だったと打ち明けていた。著書でも、姉についてこう記している。
《姉ちゃんはスポーツ万能で、めちゃめちゃ頭が良かった……姉ちゃん、元気でやっているんだろうか》(『わいたこら。』学研、以下同)
そんな家族思いの新庄は、11年に執り行われた父・英敏さんの葬儀のときには現役引退後から移住したバリから緊急帰国している。
そもそも、彼はなぜバリ島へ行ったのか。そこには、母・文子さんや生前の英敏さんをも巻き込んだ、親族間で裁判沙汰にもなった出来事があった。
20億円ともいわれる巨額の使い込みが発覚したきっかけは、皮肉なことに新庄の離婚だった。15年間、野球選手の彼を支えたタレントの大河内志保(50)と07年に離婚。その際の慰謝料の支払いなどで自身の貯蓄を精査するなかで、信頼していた伯父による不正が浮かび上がり、新庄は茫然とする。
そのときの気持ちを、彼は著書の中でこう語っていた。
《38歳のとき、ボクの人生は一度終わってしまった》
女性自身 3/25(金) 6:07
https://news.yahoo.co.jp/articles/8ff68d5789b814d35175aa4a5bc7fa0f5afbfe34?page=1
引用元: ・【野球】<新庄剛志・球界に戻る背景>難病の姉と母が…横領事件後も変わらぬ家族の絆「38歳のときボクの人生は一度終わってしまった」 [Egg★]
「事件を起こした伯父さんは、お母さんの文子さんの姉が嫁いだ先。兵庫で会社経営をしていて、子供がいなかった。それもあって、文子さん夫婦は、高校を卒業したばかりで阪神に入団して大阪に行った剛志君の面倒や、金銭管理までお願いしたみたいです。でも、あんなことになってしまって……」
語るのは、新庄が小学校に上がるころから一家と交流のある知人女性だ。彼女によれば、この件を境に、親子関係にも変化が生じたように見えたという。
「日ハムのころはお父さんも元気で、よくお母さんと一緒に球場へ剛志君の応援にも行ってました。なのに、この事件以降は、文子さんが剛志君と電話で話していても、『ツヨシのイラッとしとるのが私にも伝わってくるんよ』と、気にするようになっていました。剛志君も、このことがあって、日本にいるとメディアに追いかけられるのがイヤで、遠いバリに行ったのではないでしょうか」
当時、公にはたまたま取材で訪れバリを気に入ったように語っていたが、その背景にはこんな家族の事情があったようだ。
「一緒にバリへ行って剛志君を元気づけようと、何度も文子さんを誘いました。でもね、お母さんは『絶対に行かない』って言うの。母親として行きたい気持ちはあるようなんだけど、『飛行機に乗るのが怖い』って」
その後、11年の英敏さんの葬儀では、文子さん、姉、新庄と、残された家族3人が一時的に顔を合わせている。知人女性は続ける。
お姉さんも、このころはまだお元気にされていました。中洲のスナックでママをしているという話もあったようですが、私の知る限りこれはバイトか何かで、本格的に経営したのは水商売ではなく美容関係だったはず。お父さんから、『博多駅近くで、エステの店をやるんだ』と聞いたように記憶してます。病気のことは、はっきりとは知りません。病名も私の口からは言えません。だいぶ前から患ってはいるようです。ただ、私が最後に会ったときは、昔のまま、きれいな顔をしていました」
新庄が、この姉のために球界復帰を決意したことについても、
「あの子らしい。剛志君は、自分よりもまわりの人を励ましたり、元気にしたいと考える子。おおらかな明るさはお父さんから、芯の強さやまじめさはお母さんからと、両親のいいとこどりをして生まれてきたんですね」
実は、取材を進めるなかではこんなことを言う、新庄家の近所の住人もいた。
「剛志さんがメジャーに行って億という金を稼いでも、両親は古い借家に住み続けていた。この辺なら、3千万~4千万円も出せば立派な新築の一戸建ても買えるだろうに。剛志さんは、あまり実家にも顔を見せないようですし、両親をほったらかしやないですか」
しかし、この発言はすぐに正しくないとわかった。証言するのは商店を営む新庄の中学校の同級生だ。
「これは、彼の名誉のために言います。直接、本人から現役時代に聞きました。新庄は、両親に何度も『ボクが家を建ててあげる』と提案したそうです。そのたびに、お父さんが『余計なことは考えるな』と断ってきたと」
知人女性も、また言う。
「『家なんか建てんでいい』と言ったのは、文子さんも同じ。それは、『剛志は剛志の人生、私たち親は私たちの人生』という考え方なんだと話していましたね。小遣いを剛志君が送ると言ってきたときも、『金なんかいらん』といつも答えていたそうです」
子供は子供と、一見、突き放した印象を受けるかもしれないが、それはまったく違う、と知人女性は語る。
「実は、お母さん自身、幼いころに両親が離婚して家族が離ればなれになったりして、大変なご苦労をされているんです。お父さんも同じような境遇と聞きました。だから、文子さんも英敏さんも愛情いっぱいに剛志君たち姉弟を育てました。『剛志は剛志の人生』というのは、私たちがしたような苦労をしないで、『自分の人生を思う存分に生きてほしい』という親心からなんです」
電話も、親のほうからはかけないという。「野球に集中させてやりたい」との配慮からだ。うらやましいほど自立した親子関係だったのが、伯父の不祥事により疎遠になってしまった様子なのが本当に不憫だったと、知人女性は振り返った。
ところが、あるとき家族の絆を取り戻す絶好のチャンスがめぐってきたというのだ。
「剛志君の握手会が福岡のドン・キホーテであるというんです。18年11月でした。私は行って、あの子に伝えなければと思いました」
握手会当日、会場には長い行列ができていた。しばらく並んだあと、ようやく知人女性の順番となる。目の前に、かつてのわんぱくの面影を残した懐かしい顔があった。
「ギューッと握った手を引っ張ると、びっくりしてました(笑)」ややあって、自分の顔を思い出してくれたのか、ハッとした表情の新庄に、意を決して言った。
「剛志! お母さんがあんたに会いたがっとるよ。お姉ちゃんも、具合が悪いんだよ」
黙ったままの新庄。すぐに次の人の順番となり、それ以上は会話を交わせずに終わった。
「気持ちは伝わっただろうかと心配しましたが、杞憂でした。しばらく会場にいると、なんと、当の文子さんが関係者に付き添われてそっと控室に入るのが見えたんです。私が言うまでもなく、剛志君は事前にお母さんを呼び寄せていたんですね。改めて、やさしい子だと思いました。その後、文子さんからも電話をもらいました」
母は、言ったという。
「握手会のあと、剛志とお姉ちゃんと3人で食事に行ったの。久しぶりに会えて、うれしかった」
ここ数年なかった明るい声に、知人女性もホッとしたという。その後は以前同様、頻繁に3人で連絡を取り合っているようだとも。
新庄がバリから戻り、「球界復帰」を宣言したのは、この日の家族3人の食事会から約1年後のこと。その報を知り、知人女性は思ったという。
「“ボクも野球で精いっぱい頑張るから、姉ちゃんも病気に負けるな”と、そんな剛志君の思いが伝わってきました」
文子さんは、またこんなことも知人女性に打ち明けていた。
「最近、剛志君が言ったそうなんです。『お母さん、これからの人生は、何でも好きなことをやって過ごしたらいいよ。お金なら、ちゃんと送るから』と。文子さんも本当にうれしそうで、私も聞いていて泣きそうになりました」
人生を懸けて、監督としてプロ野球に再チャレンジする新庄の姿は、老母と、難病と闘う姉には、生きていくうえで、何よりの特効薬だろう。
そして新庄自身にとっても、この家族の和解が、一度は終わったはずの人生を、彼らしく、また明るいほうへと動きだすきっかけとなったに違いない。
自重
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