わが国の自動車史を振り返ってみると、いくつか「面白い時代」があったのに気付く。ちょっと記録に残しておきたくなるような。いわれてみれば、みんなが「あー、あったねえ」と懐かしさとともにその姿を思い出す。
そんなひとつに日産Be-1がある。その個性的なスタイリングで人気を博し、後続も誕生してひとつの時代をつくった。
それは1980年代のこと、ちょっとしたセンセイションを巻き起こした小型車を紹介しよう。
文/いのうえ・こーいち、写真/いのうえ・こーいち、NISSAN
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■「新しい日産」という主張
そもそもは1985年10月の第26回「東京モーター・ショウ」。日産はMID4なるミドシップ、4WDのスーパーGTを展示するなど、華やかさが一杯だったそのショウの片隅で、小さいながら注目を集めていたクルマ、それがBe-1であった。
日産だけでなく、他メーカーもいろいろな先進モデル、スポーツモデルなどを展示していたが、結局市販されたのはトヨタ・セリカGT-FOURとこのBe-1くらいのもの、という、方向を見失ったかのような時代でもあった。
そんななか、とても興味深い広告が目に留った。
「私は、日産のスローガンです。」
クルマを変えていくのは、こんなクルマかもしれない、というコピーがそれにつづいた。その大きな広告の真ん中にあったクルマこそ、先のモーター・ショウで見たBe-1だったから、驚いたのも無理はない。
それまで、クルマ、特に日産車というとエンジンパワーは◯◯馬力です、新しいステアリングシステムを導入しました、というようなメカニカル関係の主張が多かった。
いままでにない新技術です、とドアミラーにワイパーが付いたことが主張されるような時代。方向を見失ったどころか、行き着くところまで行き着いてしまった、さて、ここからどうやって抜け出そうか、という時代だったのだ。
そこで、「新しいメカニズムこそが進歩、という時代からの脱却」「他より豪華、他より速い、他より新しいといったライヴァル社との比較主義からの脱却」これまでのクルマづくりの概念からいかに脱却するか、というのがBe-1開発の命題だった、という。
それで、3つのティームが作られ、それぞれがそのテーマに沿ったプランを提案し社内コンペティションが行なわれた。
■Be-1というネーミングは……
社内のデザイナーによるAティーム、服飾なども手がけるプロダクト・デザイナー坂井直樹氏を中心にしたBティーム、イタリアン・デザイナーを起用したCティームという3つのティームのデザイン案の中「B-1」案が採用された。なんのことはない、車名のBe-1はその「B-1」案に由来するというから面白い。
そんなネーミングを含め、Be-1は少し低迷していた日産社内に向けてのアドバルーンだった、という話が伝わってきたのは少しあとになってからのことであった。なるほど、そういわれればインパクトのある広告も別の意味で大いに納得がいくではないか。
Be-1にはじまり、「新しい日産」「日産が変わった」という印象づけが広まっていった。そして、その結果として、これまでにない上級の日本車、シーマが送り出された。「シーマ現象」などということばとともに、日産の名が再び輝きを取り戻す。同時にその先駆けとなったBe-1の姿も思い起こされたりするのだ。
さて、その日産Be-1は、1982年に発売された小型車、日産マーチ(K10系)をベースにしている。その1.0Lエンジンをはじめとして、足周りその他、逆にいうとそっくりボディだけを替えたマーチ、というようなものだった。
エンジン・パワー52PS、ホイールベース2300mmというのも、いうなれば取りたててセリングポイントになるような数字ではなかった。
■Be-1がもたらしたもの
それにしてもBe-1はひとつのブームの中心にあったような印象がある。早速借りて走ってみたことがあるが、どこに行ってもなかなかの注目度。
中身は唯のマーチだというのに……われわれのような者にとっては、走らせても、特別に印象に残ることもなく、うん、マーチとおんなじだ、と確認しておしまい。なんでこのクルマにそんな注目が集まるのか、そちらの方が興味湧くことであった。
うんと振り返ってみれば英国ミニ、近いところでは初代ホンダ・シティというお手本があったことを知っていれば、Be-1人気の方が不思議になってくる。まあ、ブームというものがそうした不可解な「流行」なのだから、とりあえず納得するしかなかったのかもしれない。
1987年1月に発売。月産400台、最終的には1万台をつくっておしまい、という限定生産。予約殺到で、600台に生産台数を増やされたこともあった。クルマとは別にBe-1グッヅもつくられ、たとえばカタログも「Be-1ブック」として有料だったりした。
さらに日産自身でパオやフィガロといった後継を生んだだけでなく「ノスタルジック・モダン」の名のもと、ニュービートルやフィアット500などのヒントにもなった、という。
振り返ってみれば、やはり面白い存在だった、と記憶しておきたくなるのだった。
【著者について】
いのうえ・こーいち
岡山県生まれ、東京育ち。幼少の頃よりのりものに大きな興味を持ち、鉄道は趣味として楽しみつつ、クルマ雑誌、書籍の制作を中心に執筆活動、撮影活動をつづける。近年は鉄道関係の著作も多く、月刊「鉄道模型趣味」誌ほかに連載中。季刊「自動車趣味人」主宰。日本写真家協会会員(JPS)
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