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東京の空気と道路を変えよ!! 石原慎太郎が自動車業界に残した遺産

 2022年2月1日、小説家で政治家、元東京都知事の石原慎太郎氏が89歳で亡くなった。訃報に際して、通常ならば故人を賛美する言葉が並びがちだが、様々な人たちの賛否入り乱れたコメントがメディアを賑わせ、最後まで「慎太郎らしさ」を感じさせた。

 東京都知事時代の石原氏が東京の道路と自動車行政に対して遺してくれたものを振り返る。

文/清水草一
写真/MAZDA、AdobeStock(トップ画像=tomotokyo@AdobeStock)

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■石原慎太郎氏が自動車業界に残した功績

ペットボトルに入ったディーゼル車のススを記者会見場に振り撒き、規制強化をアピールした石原都知事。弟の裕次郎氏に負けない『役者』ぶりだった(Patryssia@AdobeStock)

 私には、道路および自動車行政に関して、深く感謝してやまない人がふたりいる。ひとりは道路公団民営化を実現させた猪瀬直樹氏で、もうひとりは石原慎太郎氏だ。ともに元東京都知事なのは偶然か。

 石原慎太郎氏が自動車業界に残した偉業はふたつある。ひとつはディーゼル車排ガス規制であり、もうひとつは外環道東京区間の建設再スタートだ。

 ディーゼル車排ガス規制は、都知事就任から間もない1999年、記者会見で突然(?)ブチ上げられた。氏は、「こんなのが1日12万本出ている。みんなこんなものを吸っているんだよ!」と語りながら、ペットボトルに入ったディーゼル車のススを記者会見場でブチ撒けた。

 当時の日本のディーゼル排ガス規制は、窒素酸化物に関しては厳しかったが、逆にPM(粒子状物質)についてはまったくユルく、ほとんど野放し状態だった。本来、排ガス規制は国が行うべきものだが、国は「現状の排ガス規制で十分」と、まったく腰を上げようとしていなかった。

 窒素酸化物は無色無臭の気体。夏の強い紫外線を受けると、炭化水素などと反応して光化学スモッグを引き起こすため、日本では70年代から大気汚染の主犯格として規制が進んだが、PM規制は遅れていた。

 当時のディーゼルエンジンおよび軽油の質を前提にすると、窒素酸化物とPMは「片方を減らせば片方が増える」というトレードオフ関係にあり、技術的解決は極めて困難とされていた。

 当面の対策としては、DPF(ディーゼル・パテキュレート・フィルター)の装着しかないが、高価な上に使い続けると目詰まりを起こす。

 にもかかわらず、石原氏率いる東京都は「都内ではディーゼル車に乗らない・買わない」などをスローガンに「ディーゼル車NO作戦」を展開したのである。

 これに対しては、一部で強い反発が起きた。物流業界はもちろんのこと、自動車メディアでも、石原氏の強権的な態度に「ディーゼルを悪者にするな!」という意見は少なくなかった。

 しかし私は当初から、このディーゼル規制に大賛成。「待ってました!」と感激の涙だった。石原都氏が悪として追及したのは、「過度に汚い排ガスを出すディーゼル車」や「不正軽油を用いたディーゼル車」で、ディーゼル車そのものを否定しているわけではなかった。

 それが一部で、「石原はディーゼル車を悪者にしている」と誤解されたのである。ちなみに石原氏は非常なクルマ好きで、国会議員時代はコスモスポーツを愛車にしていた。

■低性能なディーゼルエンジンと不正軽油を排除

当時の日本のディーゼル排ガスは最悪。石原氏の剛腕で自動車業界が動き、いまや日本の自動車メーカーが作るディーゼルエンジンの性能は世界トップクラスとなった(DedMityay@AdobeStock)

 とにかく、当時の日本のディーゼル排ガスは、本当にひどかった。幹線道路では、クルマの窓など開けられなかったし、オープンカーの屋根を開けるなんて狂気の沙汰だった。

 もちろん幹線道路沿道住民はたまったものじゃない。多くの公害訴訟が起こされ、国は敗訴を続けたが、PM規制の強化はまったく進んでいなかった。

 当時の日本の軽油は、残留硫黄分が欧米の約10倍。軽油の質そのものを変えないと、排ガスの浄化は極めて困難だった。つまりトラックメーカーからすると無理難題であり、石油業界にとっては、巨額の追加投資が必要になる経営上の難問だったのである。

 が、石原氏の剛腕がそれを打ち破った。2003年から、PM排出基準を満たさないディーゼル車の都内走行が禁止されると、周辺3県もそれに同調。

 最終的には環境省や日本自動車工業会も積極姿勢に転じ、国のディーゼル排ガス規制が強化されることが決まった。この動きに抗しきれず、石油業界は数千億円の追加投資を行って、軽油の残留硫黄分を欧米よりも低下させた。

 結果、日本の大都市に青い空が戻ってきたのである。石原氏の「ディーゼル車NO作戦」は、東京都を出発点に、日本を変える大勝利を収めた。石原さんには、感謝してもしきれない。

■全線を大深度地下化することで外環道計画を再始動

空から見た外環道トンネル工事現場付近。「渋滞をなんとかしないと」と、外環道東京区間の計画を再始動。国を動かし、工事を再開することが決定した(northsan@AdobeStock)

 もうひとつの偉業は、1970年以来、建設が凍結されていた外環道東京区間の再始動だ。

 石原氏は、こちらも都知事に就任して間もない1999年、「渋滞をなんとかしなくちゃならないだろう」と言って再始動を指示。4年後の2003年には全線を大深度地下化する方針が示され、2007年に計画が決定した。

 こちらに関しても石原氏は、外環道を作るために、国に大深度地下法を制定させることに成功している(01年)。文字通り、石原氏によって国が動いたのだ。

 外環道東京区間の工事は、一昨年10月に発生した地上陥没事故によって工事が中断しているが、被害を受けた地権者への補償を進め、再発防止策を徹底することで、シールドトンネル掘削工事が再開される流れになっている。とりあえずは土地を取得した区間の地下部分から、工事を再開することが決まった。

 まさか地下40メートル以上の大深度に掘られたトンネルで、地上が陥没する事故が発せするとは、石原氏も考えなかっただろう(私も思いませんでした)。今後工事が再開されても、進捗速度はかなり遅くなるが、なんとか完成することを祈っている。

 実は、外環道東京区間の完成も、個人的な悲願。約20年前から予定地に足を運び、「環八地下化」などの具体的な提案を行ってきた。環八の地下なら若干の陥没事故が起きても大きな問題にならなかったはずだが、とにかくどんな形であれ開通してくれれば、首都圏のドライバーにとって大きな福音となる。

 石原慎太郎氏は、私たち自動車ユーザーに、大きな遺産を2つも残してくれた。私はその業績を決して忘れないし、死ぬまで感謝し続ける所存である。

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