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海部俊樹元首相が9日に死去していたことが分かった。91歳。衆議院当選16回、在職年数は48年を数えた。労働政務次官、官房副長官、自由民主党国会対策委員長、文部大臣などを経て、1989年(平成元年)に第76代内閣総理大臣に指名された。昭和6年(1931年)生まれの海部さんは、昭和生まれ初の首相。

1989年、アメリカのブッシュ大統領と会談する海部首相(ホワイトハウスアーカイブより)

海部内閣時に自民党幹事長を務めていた立憲民主党の小沢一郎氏は14日午前、ツイッターを更新。海部さんの功績や人柄を偲んだ。

「海部先生には幹事長としてお仕えし、日々共に難しい問題と格闘していた当時が思い出されます。先生は常に国民を第一に思いやる温かい心を持った偉大な政治家でした。雄弁でユーモアセンスも抜群で、誰からも愛されました。いつもその人間性に魅了されていました。心からご冥福をお祈り申し上げます。」

1989年(平成元年)8月10日から1991年(平成3年)11月5日までの約2年3カ月に渡って日本のかじ取りを担ってきた海部氏。首相在任中に成し遂げた仕事と言えば、何と言っても湾岸戦争の対応だろう。外交青書では湾岸戦争時について「(日本は)平和的に問題が解決されるべきであるとの立場を一貫してとり、そのための外交努力に全力を傾けた」としたうえで、海部内閣の対応を次のように取りまとめている。

湾岸危機全般を通じ、国連総会や二国間会談等の機会に国連安保理常任理事国を始めとする主要国との緊密な連絡、協議を通じ、事態の平和的解決のための環境を醸成するための努力を続けた。同時に、イラクに対しては、10月にジョルダン(編集部注・ヨルダン)で海部総理大臣が西側首脳として初めて行ったラマダン・イラク第一副首相との会談や、12月のフセイン・イラク大統領に対する海部総理大臣の親書の発出、国連事務総長、現地の大使館等のルートを通じて、イラクがクウェイトから無条件に撤退することにより問題を平和的に解決するべきことを繰り返し呼び掛けた。

湾岸戦争時に海部内閣は、多国籍軍に130億ドル(当時のレートで1兆8,000億円)の資金を拠出し、ペルシャ湾に海上自衛隊の掃海部隊を派遣した。これらについては、30年以上が経った今でもさまざまな意見が出ている。

第1次海部内閣の組閣(官邸サイト)

首相指名「びっくりした」

実は海部さんは、自分が首相になるとは思ってもいなかったと後に回想している。自分が首相に指名されたときのことをNHKのインタビューにこう答えている。

びっくりしたよ。竹下氏(編集部注:竹下登元首相)が来て、『絶対勝つから、お前やれ。安倍晋太郎氏(編集部注:元官房長官、安倍晋三元首相の実父)も連れてくるし、票読みをするとお前が勝つよ』と。『河本さん(編集部:河本敏夫氏、海部氏が所属していた河本派の会長)がいるから』と言ったら、『あの笑わん殿下ではダメだ』と。言われたとおりに朝から晩まで『海部俊樹です。よろしく頼みます』と電話をかけて、そうするとみんな『しっかりやってくれ』と言ってくれる。

河本派の中では『竹下と安倍の操り人形になるからやめろ』という意見もあったが、『お前しかいない』と言われてやらなかったら、お先真っ暗。どうせ真っ暗なら、自分が中でできるだけ努力しようと思った。三木さん(編集部注:三木武夫元首相)のクリーンなイメージを受け継いでいたことが理由だと思う。

首相退任後は、社会党委員長だった村山富市氏の首班指名を巡って自民党を離党。新進党を結党して、初代党首に就任した。その後、新進党の解党に伴い自由党に入党。自由党の分裂で保守党、後に保守新党の所属となる。保守新党が自民党に吸収合併されたことにより、2003年に自民党に復党している。離党時に自民党本部から撤去された海部氏の肖像画が、復党時にふたたび掲げられたことでも話題となった。

自民党政権から民主党政権に政権が交代した2009年衆議院選挙の小選挙区で落選。党の比例代表の「73歳定年制」もあって比例代表に重複立候補できなかったため、政界を引退した。