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 バス停散策、以前に西鉄バス北九州の「香月営業所」停留所を取り上げたが、今回はその前身となった小嶺営業所あらため「小嶺車庫」停留所に行ってみた。かつての「全盛時代」を思うと都市計画の重要性を再認識した、そんなオピニオン記事である。

文/写真:古川智規(バスマガジン編集部)


香月営業所と併存期間もあった小嶺営業所

 小嶺営業所は現在では敷地の規模をかなり縮小し、小嶺車庫として当地折り返し便の転回場の機能のみが残る。時期的には先に香月営業所は国鉄香月駅跡にできていたが、小嶺営業所も併存していた。

小嶺車庫バス停

 西日本鉄道がバス会社を分離してさらに地域分社化した際に香月営業所は西鉄バス遠賀(現・西鉄バス筑豊)の所属になったが、小嶺営業所は西鉄バス北九州の直営営業所としてしばらくは存続した。

 その後の改変で香月営業所が西鉄バス北九州に復帰すると、手狭な小嶺営業所は廃止され、担当路線のほとんどを香月営業所に、一部を八幡営業所に移管して小嶺車庫になった。

小嶺営業所時代は戸畑との間を往復しまくっていた

 小嶺営業所があった頃は営業所前を通る国道200号(現・211号)にはひっきりなしにバスが走っていた。特筆すべきは40番で小嶺営業所と戸畑渡場との間を、多くのバスが往復しまくっていた点。それこそ時刻表が不要なほど国道200号を走る路線バスの多くは、40番で占められていたといっても過言ではない。

馬場山方面から黒崎に向かう53番

 後年になり、黒崎インター引野口付近から延びる新しい道路が整備され、新道が国道200号に指定替えされたことにより幹線系統が二分化され、路線も整理・短縮あるいは縮小され続け現在に至る。

当時の路線を思い出す

 昭和末期の小嶺営業所を発着する、または通過する路線の一部を思い出すと本当に多かったのが実感できる。現在の行先番号と異なる系統も担当が小嶺あるいは香月とは異なる路線もあるが、40番台の系統は小嶺営業所から戸畑方面が基本で、40番・戸畑渡場、41番・若松駅、42番・馬場 花尾町経由経由八幡駅方面だった。

今でも系統は異なるが連なって走る場合もある

 70番台は黒崎バスセンターから八幡西区南西部方向へ走る系統で、70番・直方、71番・筑鉄香月、72番・畑観音、73番・馬場経由小嶺営業所と直方まで途中から狭隘路を走る路線バスもあった。

市内急行も存在した

 福岡市内ではポピュラーなハイバックシート、エアサス車、専用塗色のいわゆる市内急行も小嶺営業所から出ていた。

 90番急行・馬場 バス専用道経由砂津は道路は狭いが渋滞が少ない馬場経由として黒崎まで走った後は電車代替として機能し、西鉄北九州線・枝光線・戸畑線のルートを走った。西鉄戸畑線跡地のバス専用道を走り(現在はバス専用道は廃止)、小倉まで行っていた。

特急は都市高速を走るので小嶺車庫は通らない

 53番は馬場山までストレートに国道200号を走っていたが、現在ではその先の星ケ丘団地方向に道路が延伸されたので、最長はイオンモール直方まで行く。53番に乗車してイオンモール直方で乗降する場合に限り北九州市内24時間券等の1日乗車券でも乗車が可能だ。

急行も快速も通った

 香月快速は筑鉄香月と砂津を北九州道路(現・都市高速)経由で結んだ。日中も運行され専用の標準床トップドア車が運用に入っていた。

 筑豊方面行きの急行は小嶺営業所には停車しなかったが、砂津から国道3号を経由して黒崎バスセンター、国道200号を経由して直方・飯塚・田川(後藤寺)のいずれかまでを結んでいた壮大な長距離路線だった。

現在の香月快速は星ケ丘五丁目行き

 黒崎始発の区間便もあったが、こちらも標準床トップドア車が運用に入り、ラッシュ時は常に立席で運行するほど盛況であった。筑豊地方の営業所が担当していたため、案内放送の声が北九州市内と違うのが特徴のひとつだった。

鉄冷えと人口流出

 これらの長距離急行バスは北九州工業地帯へ多くの労働者を運んだが、鹿児島本線から筑豊本線への直通長大客車列車(50系によるラッシュ時の波動輸送で遅くても多くの乗客を一度に運べる利点がある)の運転や、そもそもの「鉄冷え」により筑豊と北九州から人口が流出した。

折り返しのために小嶺車庫に入庫する57番

 これによりバスも減便の一途をたどり、残ったのは黒崎・直方間のみでそれも中型路線バスでの運行になってしまった。

 前述のように新しい道路ができたことによる新規路線の開設で、小嶺営業所を通過する路線は分散された上で減少し、多くの路線が集まる黒崎駅前でさえ以前の賑わいはない。

都市計画の重要性

 かつては筑豊炭田と石炭輸送、製鉄所をはじめとする工業地帯に依存して栄華を誇った北九州市は、製鉄所が全国に分散しそれにともなう労働者=人口の流出を止めることができなかった。

小嶺車庫から出庫してきた77番

 これ自体は仕方がないとはいえ製鉄所の跡地に開園したスペースワールドも閉鎖され、九州の鉄道の本拠地(国鉄の門司鉄道管理局や九州総局は門司港にあった)であった地位も福岡市に明け渡し、西鉄が残ったのは分社化されたバス会社だけになってしまった。

 小倉駅前の商業施設は一等地であるにもかかわらず長続きせず、黒崎駅前からは百貨店が消え巨大な商業施設跡だけが放置された状態で現在に至る。こうした状況になる前に都市計画を抜本的に見直して、目先ではなく数十年後を見据えて手を打っていれば、福岡市ほどとは言わないまでも現状の負の連鎖にはならなかったのではないかと悔やまれる。

 新しい道路ができても現住する住宅地までバスが来てくれることはほぼ望めないので、高齢化社会が進むにしたがってバスの重要性が高まることは再認識されるべきで、本来であれば人口減を理由に衰退している場合ではない。

小嶺車庫終点にアプローチする57番

 他の都市であれば仕方なくコミュニティバスを走らせるところだろうが、北九州市は若松区に存廃が議論される市営バスを抱え、他のほとんどの区域は西鉄が路線を持っているので自前でコミュニティバスを走らせるのは難しいのかもしれない。

 それでも不便な高所に住んでいる人は車にシフトし、そういった人たちが高齢者になった後のことまで考えて都市計画を策定するべきだった。

 小嶺営業所が廃止されたこととは直接の関係はないのかもしれない。しかしかつての便数とバスの台数を顧みると政令指定都市でさえ長期目線での都市計画が重要であり、公共交通機関はその根幹となるべき重要なインフラであることを再認識する時が来ているのかもしれない。

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