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 1989年~2002年まで販売された第2世代と呼ばれるスカイラインGT-Rが幕を閉じて20年が経過したが、今でも高い人気を誇る第2世代スカイラインGT-R。

 ここでは第2世代スカイラインGT-Rの生みの親とも言える2人の開発担当者にインタビューを行い、当時の開発にまつわる話を聞いた。

 第2回は大ヒットしたR32型スカイラインGT-Rを受けて、1995年に登場したR33GT-Rの開発担当者、渡邉衡三さんに話を聞いた。

文/萩原文博、写真/日産自動車、萩原文博

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大きくなったボディでスカイラインの走りを表現できるのかを悩んだ

「退路を断って作ろう」R33スカイラインGT-R開発秘話【日本自動車界の至宝GT-R三代(2)】
R33スカイラインGT-R後期型

 渡邉衡三さんは、2代目から7代目スカイラインまで何らかの形で関わっていたという。パルサーで日本カー・オブ・ザ・イヤーを受賞した後に、9代目となるR33型スカイラインの開発担当となった。

 それはある日、大学時代の仲良かった人からがスカイラインの商品主管やってみるか。と言われて断る理由はないので、商品主管を拝命したのだ。

 R32スカイラインの開発担当者だった伊藤修令さんは、9代目は2ドアだけでなく、4ドアも売れる元のスカイラインの路線に戻したかったそうだ。しかしバブルが弾けてしまって原価や会社の経営も厳しく、どうやってコストを抑えるかという空気が全社的に漂っていたそうだ。

 そうすると、ローレルとスカイラインを共有化すればいいという結論になる。ホイールベースも同じにすれば、そうすればいくら安くなる。ということを商品主管の伊藤修令さんにオーダーする。でもそれだとスカイラインには大きすぎる。スポーティ路線から外れるのではないかと葛藤があったはずだと話してくれた。

 そして色々あって、代わるという判断に至った。その時の社内外からスカイラインGT-Rに対する評価は、相撲で言うと横綱の千代の富士。20年に1度出るか出ないかという優れたクルマだからあのまま作れば良いじゃないか。と商品主管になったときに言われたそうだ。

 ほとんどのジャーナリストからもR32継続でR33作ればいいのではないかという意見が多かった。しかしR32スカイラインの評価として、2ドアは人気だけど、4ドアが苦戦した。4ドアの居住性が良ければ、走りの性能が良ければもっと売れたと販売店からも言われていたという。

 そういう声と会社の声を考えて、結果論からすればフロントの足回りも変えない。リアのオーバーハングも違う。針小棒大にしてコストのことをだまっていた。本当に量産性を挙げるのならば、一切変えないことが一番。それを言わないのに、ホイールベースを同じにするっていい加減にしろと思ったそうだ。

 R33スカイラインの開発担当になったものの、周りはみんなR33GT-Rというモノに対して、逆風だった。もう一度エンジン設計部長の所へ行ってR33GT-Rのエンジンをもういちどお願いしますと言いに行くと、決まればやるよという感じ。

 まだ正式にGOが出ていないから、GOを掛けないといけない。そのために商品本部長にR33GT-Rをやるために、基準車の商品主担に加えて、GT-R専任の商品主担一人ポストを作った。そのGT-R専任の商品主担が吉川正敏さん。

 吉川さんとはすごい因縁があって、R32型スカイラインGT-Rをニュルで卒業試験を行う時に、彼は当時シャシー設計にいた。901運動のプロモーションビデオを作るというときにカーグラフィックTVの撮影スタッフを連れてきて、貴重な実験の工数を割いて、ビデオ撮ると言われた。聞いていないと言うと、担当と話を付けていたと言われたそうだ。

 フェアレディZも持ってきて、ニュルの森を抜けて来る所をヘリで撮影したいといってヘリがホバリングしていて、スカイラインGT-Rが走ってくるとそれに追いつく。しかしガスタービンのレスポンスではGT-Rに追いつけない。

 そして何度も取り直ししたので、後で徹底的に攻めた。そうしたら、商品主担できた吉川さんにあのときあなたは冷たかったと最初に泣きごとを言われた。その当時はとにかく、R32GT-R中心だったので、出た不具合、例えば、ブレーキが弱い、クラッチが傷むということを、マイナーチェンジで17インチにしてブレンボを入れて、クラッチはプルクラッチに変更した。

 そんなことをしたら、R33GT-Rの目玉がなくなるじゃないかと言う人もいた。しかし、最新のGT-Rが最良のGT-Rであるということをやっぱりやらなければ次に繋がらない。むしろ退路を断ってR33GT-Rを作ろうと思った。

 そこで、ホイールベースが長いということは本当に悪いことなのか。と考えて、キビキビ感に関してはマイナスの要因であるけれど絶対不利かといえばそうではない。むしろ制動時の安定性やスタビリティの向上などどうにかなると考えていたという。

 もちろんエンジン性能の向上をすればいいという人もいましたけれどもR33GT-Rの最大のライバルはR32GT-R。自分が一生懸命手塩に掛けたクルマをね、ある意味否定しなければならない。こんな嫌なことはないなと思いながら開発していたそうだ。

 あのエンジンに手を入れて足回りも横剛性が足りないからアームを二股にするとか、地道ではあるけど、最新のGT-Rが最良のGT-Rであることを目指した。例えばハイキャスも進化させ、コントロールスリップデフを採用するとか色々手を入れて、リリースすることができた。

 しかしR32GT-Rはゼロベースで出てきたクルマなので、60点ぐらいでもインパクトは抜群。さらに性能を向上させたR33GT-Rは、絶対的に見れば80点であってもR32GT-Rの60点から20点しか上がっていない。

 そういう風に見えてしまうR33GT-Rを訴求するために、どうしたらいいか。そこで本来、気持ちの良さ、速さというGT-Rとしてのあるべき姿を速さにちょっと特化したVスペックを作った。それで、それを訴求していった。

R33GT-Rのインパクトを強くするために、ニュル8分切りは必須条件だった

「退路を断って作ろう」R33スカイラインGT-R開発秘話【日本自動車界の至宝GT-R三代(2)】
ル・マン24時間レースに参戦するために製造されたGT-RLMロードカー

 ニュルへテストにいってR32GT-Rは8分20秒ぐらいで走っていたけれど、今回のどうなのと商品本部長に言われて、計算すれば8分2秒ぐらいですかねと言ったら。お前バカかと。本当に技術屋は頭が硬いと言われたという。

 その世代交代というインパクトがわかっているのかと、4万200円と3万9800円その差は400円だけど、インパクトはどうなのだといわれたので、それは3万9800円ですと言った。

 8分を切れないとは言えないけれど、やってみてダメだったら謝ればいいやと開き直って。まぁ3人がスタートは遅く、ゴールは早押しだったかもしれないけれど、7分59秒だったということでマイナス21秒という言葉が生まれた。

これで日本に帰れるなと正直思ったと渡邉は話す。R33の商品主管を拝命されたときに商品本部長から商品主管ってわかっているよな、目標未達成だったら、家にいって金返せといわれるのだよ。と言われたそうだ。クルマの開発費を家とか土地売って返せるのだったら苦労しないと思った。

 R32からの上澄みを見せることでマイナス21秒のロマンが生まれた。あと、R33では何をやるのかと一生懸命考えたときにR32GT-Rは豪州、スパで勝っているからでもルマンに行っていない。だからル・マンに参戦しようということになった。

 そこで水野和敏さんと考えて、ハコのクルマの中ではどうにかなるかなということになった。言い忘れていたが、ポルシェ904との戦いから始まって。スカイライン。特にGT-Rというのはハコで速いというのが良く言われているが、それが役割だと思っている。

 だからルマンでもハコで戦おうと思ったし、ルマンに出したおかげで、ルマン参戦記念車といってボディカラーで商売するということを教えてももらったのは良かったと話す。

 そしてR33で、今でも忘れられない思い出が、スーパー耐久でもがんばろうと思って参戦した。R32GT-Rが華々しいデビューを飾った美祢でR33も美祢のスーパー耐久に参戦。モノの見事にR32GT-Rに負けてしまう。

 レース後販社の社長に、ゲストハウスに呼びつけられて、お前オレに古いクルマ売れというのかとこってり絞られたそうだ。それ以来美祢に行ってゲストハウスを見るとその時の嫌な記憶が蘇ってトラウマになったと言う。

 モーターショーで参考出品したら、ボロクソにいわれて、グリルとリアスポイラーは若い人に教えてもらった。毎日雑誌が机の上にあってみんなえぐいのばかりでそれに目を馴らしてくれて。顔もえぐいのにして、R33が決まった。

 あのときは若い人に世話になった。だから基準車もマイナーチェンジで2ドアの基準車もモーターショーに出品したフロントとリアスポイラーを装着したし、色々と勉強になった。

 技術的な進化もあり、車外騒音を減らすかとか色々とテストを行った。しかし、その頃は広報含めて、雑誌を送ってもらっていたけれど、ほとんど見ずにゴミ箱に入れていたそうだ。

 R32GT-Rはアンダー傾向が強かった。それを見事に変えたのは名匠加藤博義さんの味付けが良かったということ。彼は本当に苦労していたと話す。

 開発中に自宅に帰ってきたときにウチの傍で隠れているのではないかというぐらいドンピシャのタイミングで電話してきて、こちらは疲れて、お腹空いているからご飯食べたいなと思っているのに、「お金がないか、お金がなければ時間がないか」と初めて加藤さんが電話で連絡してきたそうだ。

 こちらは、速く切りたいからいい加減なこと言ってきろうかと思ったけれど、そうもいかな。開発スケジュール上はやっぱり、僕の一存ではとても延ばすことはできないから、スケジュールを守るしかない。手品師ではないからタマはない。もう頼みになるのはお前だけだからがんばってくれとしか言えなかったと話す。

 バブルが弾けてお金がなかったこともありましたけれど、ストレス太りですかね。体重が増えていて、このままでは肝機能障害になると言われて、アイスクリームを食べていて、甘いモノは一切ダメとドクターストップが掛かった。

 3カ月それをしたら7キロくらい痩せて。痩せてどうしたのといわれると病気と言ったりしていたそうだ。それくらいストレスを抱えて開発をしていたのだ。

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