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<p>米空母キティホークが廃棄処分へ、70年代には人種暴動の舞台にも</p><p>米空母キティホークが廃棄処分へ、70年代には人種暴動の舞台にも</p><p>それはかつて、インド太平洋における米国の軍事力を示す最大のシンボルだった。ベトナムからペルシャ湾まで数々の戦闘を経験し、ソ連の潜水艦との衝突事故も生き延びた。</p><p>「諍い(いさかい)はたちまち艦内に広がって、黒人集団と白人集団が甲板のあちこちでもみ合い、拳やチェーン、レンチ、パイプで殴り合っていた」。ノートルダム大学クロック研究所のデビッド・コートライト現所長は、ベトナム戦争に対する黒人の抵抗運動を題材にした90年の記事の中でこう書いている。 キティホーク内で発生した暴動と人種間の緊張状態は間違いなく、当時の米国社会で明るみになっていた人種格差を反映するものだった。 報告書には、4500人のキティホーク乗組員のうち黒人水兵は10%未満とある。また海軍歴史遺産コマンドのある報告書によれば、348人いた将校のうち黒人はわずか5人だった。 72年10月12日の夜から13日にかけて発生した事件について、議会の報告書には47人の水兵が負傷し、「そのうち6人ないし7人をのぞく全員」が白人だった、と書かれている。 議会の調査が発端となって、軍は人種格差の対処に乗り出した。一方で、小委員会の報告書そのものにも偏見に満ちた文言が散見され、米国で人種の偏見がいかに根強かったかを物語っている。 「小委員会では、キティホークでの暴動がごく一部の人間による一方的な暴力によるものだという立場を取る。彼らの大半が精神的に未熟で、乗船歴も1年未満、全員が黒人だった。この集団全体が『ならず者』として行動していた。そもそも彼らを始めから入隊させるべきだったのかという疑問が生じる」。報告書の概要はこのように締めくくられている。 とはいえこの事件や他の軍艦で起きた事件をきっかけに、海軍指導部は種々のプログラムに改めて本腰を入れることになった。これらをいち早く開始したのは当時海軍作戦部長だったエルモ・R・ズムウォルト・ジュニア大将で、狙いは艦隊内の人種関係を改善することだった。 海軍の統計によれば、2020年12月31日時点で現役海軍兵のうち黒人水兵は17.6%だ。 退役したジェームズ・ファネル大佐の話によれば、自身が航空団の諜報(ちょうほう)部員としてキティホークに乗船したころには、人種暴動はすでに忘れ去られていたという。 「乗船している水兵のほとんどは歴史の専門家ではない。次の寄港地や作戦を待つだけだ」(ファネル氏) ファネル元大佐が別の空母USSコーラルシーで最初に航行した87年、女性の乗組員は1人もいなかったという。「それから10年後キティホークに配属された時には、私の部下11人中8人が女性で、小艦隊と諜報部員として働いていた。かなり劇的な変化だ」 今では現役海軍兵のうち女性は20%以上を占めている。 暴動から女性登用までの間、キティホークはソ連の原子力潜水艦と冷戦中に緊迫の場面を演じた。その結果、米空母は船体に潜水艦の一部を残すことになった。 84年3月、キティホーク率いる戦隊ブラボーは、韓国との毎年恒例の合同軍事演習「チームスピリット」で、海軍演習の中心的な役割を担っていた。 When catapult officers reach the end of their tour aboard a carrier, it is tradition to launch their boots off the flight deck. This "boot shot" was on USS Kitty Hawk in 1970. The Kitty Hawk is currently on her way to the scrapyard after being sold for 1 cent.</p>