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零戦と同型エンジンを搭載、零戦より知られた「隼」とは?

 第二次大戦時の日本の主力戦闘機が「零戦」であることは広く知られている。しかし、戦時下において国民の多くは、それを「隼」(はやぶさ)だと認識していた。

 当時、映画「加藤隼戦闘隊」などによる国家的な広報活動によって、隼を知らない国民はいなかったが、その一方で、中国大陸や遠方の海域を主戦場とした零戦は、終戦間近までその存在自体が秘匿されていたのだ。

 零戦と同型式の中島製エンジンを搭載し、名機と謳われた日本陸軍の主力戦闘機「隼」は、今、世界に1機だけ、飛行可能な機体が存在する。今回は、筆者がアメリカで空撮した隼の、取材レポートをご紹介したい。

文/鈴木喜生、写真/藤森篤、スバル

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カムチャッカ半島の残骸をもとに「隼」を再生

零戦と同型エンジンを搭載、零戦より知られた「隼」とは?
エリクソン・エアクラフト・コレクションが保有する隼三型甲

 オレゴン州のポートランドから180kmほど内陸部に入ると、マドラスという小さな町に大戦機保存団体「エリクソン・エアクラフト・コレクション」がある。

 この組織はP-38ライトニング、P-51マスタング、F4Uコルセア、P-47サンダーボルトなど、フライアブルな大戦機を数多く保有しているが、そのうちの一機に、世界で唯一飛行可能な「隼三型甲」がある。

 零戦の場合は徹底して空力にこだわった結果、機体フォルムに曲線が多いが、それに対して隼の、特に胴体のラインは真っすぐ。つまり機体構造がシンプルで生産性が高い。

 一見すると両機は似ているが、零戦を設計した三菱重工と、隼を開発した中島飛行機の設計思想は、大きく違っていたと言える。

 零戦と隼は、中島製のほぼ同型式のエンジンを搭載していた。空冷複列星型14気筒のこのエンジンを、海軍では「栄」と呼び、陸軍では「ハ」を頭文字として、それに型式の番号を続けた。

 エリクソンが所有する隼三型甲は、オリジナル機では「ハ115-II」を搭載していた。水メタノール噴射装置を載せ、離昇馬力は1300hp(離陸するときの最大馬力)。しかし、残念ながら稼働するハ115-IIは現存しておらず、そのためエリクソンの隼は、米国製P&W R-1830ツイン・ワスプを代替機として搭載している。

 エリクソンの隼三型甲は、アメリカに拿捕された機体ではない。カムチャッカ半島の南方11km、千島列島の最北端に、占守島(しゅむしゅとう)という島があるのだが、そこで回収された隼の残骸をもとに再生された。

 残骸からオリジナル機の構造と寸法を割り出し、新しい部材を製造する工法を「リバース・エンジニアリング」という。この工法によって再生された隼は、復元機というよりも新造機に近いだろう。

当時最先端の「全金属製」「単葉」「引込脚」

零戦と同型エンジンを搭載、零戦より知られた「隼」とは?
昭和10年に制式採用された陸軍の九五式戦闘機

 さて、隼が当時、いかに先進的な戦闘機だったかを、日本軍機の系譜とともに少々ご説明したい。

 隼は全金属製の単葉戦闘機である。複葉機が主翼を二枚持つのに対して、単葉とは主翼が一枚のこと。今では当たり前な機体スタイルだが、隼がデビューするわずか6年前(昭和10年)に運用が開始(制式採用)された陸軍の「九五式戦闘機」は、まだ複葉機だった。支那事変の時代である。

 なぜ当時の機体が複葉だったかというと、その頃の機体は主な素材として木材を使用していて、一枚翼にするだけの強度が足りず、二枚の複葉で互いの翼を支え合う必要があったからだ。

 戦闘機であるからには、大きなGが掛かる空中戦が必須。または重い機銃や爆弾を搭載する必要がある。そのとき主翼に掛かる負荷は高く、その結果、戦闘機には複葉が採用されることが多かったのだ。

 また、それら複葉機時代の主翼は、骨組みに布を張り、ドープという塗装剤を塗って固める「羽布張り」仕様だった。主翼の前縁(前方の縁の部分)だけは金属製の外板が張られていたが、基本的に当時の飛行機は、機体を軽くするために、木と布でできていたのだ。

 そうした状況をガラリと変えたのが、全金属製の機体の登場だ。剛性の高い金属で機体すべて構成することにより、単葉の戦闘機が初めて実現したのだ。

 陸軍における最初の全金属製の単葉戦闘機は、隼がデビューする4年前(昭和12年)に制式採用された陸軍の「九七式戦闘機」。この機体を開発したのは中島飛行機であり、その設計主務者は、後に隼を生み出す小山悌(こやま やすし)氏だ。

 また同年、海軍が「九七式艦上攻撃機」を制式採用したが、これが海軍機における初の全金属性・単葉機となった。この機体は、中島が開発した機体を「一号」または「三号」、三菱のものを「二号」とした。設計仕様の違う両モデルがともに採用されるという、ちょっと珍しい事例だ。

 そして中島による「九七式艦攻一号」には、国産単発機としてはじめてとなる引込脚が採用されていた。これによって空気抵抗が減り、その結果、機速が大幅に上がり、同時に航続距離も延びた。

 九七式艦攻は真珠湾攻撃(昭和15年12月)にも投入され、この機上から「トラ、トラ、トラ」が打電されたことでも知られている。

 こうしたモデルを経て、その集大成として開発されたのが、三菱重工による海軍の「零戦」(制式採用・昭和15年)であり、中島飛行機による陸軍の「隼」(同・昭和16年)だ。そしてこの両機に当時最高のスペックをもたらしたのが、中島製のエンジンである。

隼のパイロット・インプレ

零戦と同型エンジンを搭載、零戦より知られた「隼」とは?
安定性が高く、舵はリニアに入って軽い、とブレント氏は隼の印象を語った

 我々が空撮を行う際、隼を操縦してくれたのはブレント・コナー氏。彼は普段、森林火災などで発動されるエアタンカー(空中消化機)を操縦するベテラン・パイロットだった。

 確かに、ポートランドから取材地へ移動する際も、一帯が焼野原と化してキナ臭く、森林火災の跡が拡がっていた。

 大型機からレシプロ戦闘機まで、さまざまな機体を操縦するブレント・コナー氏は、隼の特性をこう語った。

「隼を見て最初に感じたのは、マスタングなどと比べてすいぶん小さい機体であること。でも胴体は滑らかでエレガントで、後方から見るとエンジンからのテーパー形状がとても美しいと思いました」

 「実際に飛ばしてみると、良い意味で期待は裏切られました。安定性が高く、舵もとてもリニアに入る。舵は軽く、打った舵に対して調和性を感じます。フル・フラップにしたときの旋回性も素晴らしいですよ」

 「上昇性能も高い機体ですが、同時代の機体と比べて決して機速は速くありません。零戦やワイルドキャットと同等でしょう。ワイルドキャットと一緒に飛ばす機会がありましたが、空力的には隼のほうがスムーズに感じました。パワーもだいたい同じですね」

 「ただ、隼のコクピット・デザインはあまりよくありません。窮屈で、ラダーペダルではなく、ラダーバー仕様。しかもブレーキが連結されているので、フルラダーの際、ブレーキペダルに足が届かず、その併用ができないのです。この構造は改良する予定です」

中島の本流はSUBARUへ、エンジン開発部門はプリンス、日産、IHIへ

 隼を開発した中島飛行機が、SUBARU社の源流となる企業だということは広く知られている。

 終戦を迎えた1945年、同社は戦後処理命令によって「富士産業」に改称したが、その後、1950年には財閥解体によって解散を命じられるとともに、工場ごとなど15社に分割された。

 1953年には、そのうちの5社が再び集まり、航空機生産を目的とした「富士重工業」を発足している。同社はご存じのとおり一大自動車メーカーとして発展し、2017年には「SUBARU」に社名を変更した。

 一方、隼の搭載エンジン「ハ115」などを開発した部門は、戦後、「富士精密工業」として独立していたが、1954年、立川飛行機の流れを汲む「プリンス自動車工業」と合併。さらに1966年には「日産自動車」に合併している。

 戦時中、中島飛行機はレシプロエンジンだけでなく、ジェットエンジン、ロケットエンジンの開発を進めていた。また、プリンス自動車工業では、日本におけるロケットの第一人者、糸川英夫氏とともに日本初となる固体燃料ロケットの開発にも取り組み、1960年には「カッパK-8」を、国産ロケットとしては初めて宇宙空間(高度100km以上)に到達させている。

 日産に合併後は、中島やプリンスの流れを汲むそれらスタッフによって「宇宙航空事業部」が構成されたが、同事業部は2000年、「IHIエアロスペース」へ移行されている。

 隼の設計主務者である小山悌氏は、大戦中は中島飛行機技師長・取締役や、中島飛行機三鷹研究所長を務められていが、戦後は、主に林業用機器などを製造する「富士産業株式会社岩手工場」の取締役に就任。同社は1980年、「イワフジ工業株式会社」に商号を変更し、現在に至る。

 小山氏は、陸軍の「九七式戦闘機」、「隼」をはじめ、「鍾馗」、「疾風」などの設計主務者も務め、戦前日本を代表する航空機技術者とされたが、それに関わって亡くなった方々のことを想い、戦後、自身が開発した機体に関して多くを語ることがなかった。

零戦と同型エンジンを搭載、零戦より知られた「隼」とは?
エリクソンが所有する隼のコクピット内
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