1989年から2年余りにわたって総理大臣を務めた海部俊樹氏が老衰のため1月9日に逝去した。享年91。湾岸戦争の勃発で本格的な自衛隊の海外派遣を決断するなど平成史に足跡を残したが、首相在任中の出来事で同様に歴史に刻まれるのは、ソ連の国家元首として初来日したミハイル・ゴルバチョフ大統領(当時)と交わした日ソ共同声明だろう。
ロングラン会談の結果、択捉、国後、色丹、歯舞の北方四島が平和条約で解決されるべき領土問題の対象であることが初めて文書の形で確認された。
海部氏は英国のサッチャー首相、ドイツのコール首相からもらったアドバイスを元に、ゴルバチョフ氏に「初めて首脳同士が会っているんだから、ほぐれた本音の話をしよう」と迫り、ついに領土交渉の対象として四島の存在を認めさせた。別れ際に2人で交わした「指切りげんまん」は両国間の閉ざされた重い扉が開いたことを物語っていた。両国の間に領土問題解決の好機が訪れたことは疑いようがない。
ロシア語発音を何度も練習
海部氏には今から11年前の2011年4月、日ソ共同声明から20年の節目を機にインタビューした。歴史の証人の肉声を記録に残すため、改めて振り返りたい。当時、明らかにできなかった内容も今回、詳細に披露したいと思う。
「ドーブルイ・ジェーニ」(Добрый день、「こんにちは」)
「ズドラストビーチェ」(Здравствуйте!、別の言い方の「こんにちは」)
「スパシーバ」(Спасибо、ありがとう)
インタビュー当時、政界を引退し、81歳になっていた海部氏だが、もう20年前にもなるゴルバチョフ氏にしゃべったロシア語のあいさつを鮮明に覚えていた。教えてもらった言葉の発音練習を何度もしたのだという。
「お互いに閉ざされた(冷たい)北極海の中にいるような気持ちで付き合ってきた相手に、片言でも自分の国の言葉でなんか言おうとしている気持ちがわかればいいと思って、ロシア語の最も標準的な言葉を教えてもらった。それを彼に言うことでお互いにぴりっと感じることがあるんだよな」
永田町の個人事務所で行なわれたインタビューで、トレードマークの水玉模様のネクタイをして現れた海部氏はそう切り出し、「ゴルビー」(ゴルバチョフ氏の愛称)との記憶を一つ一つよみがえらせていった。
「初対面のとき、ゴルビーは『ロシア語をよくご存じですね』と言ったよ」
ゴルバチョフ氏が羽田空港に降り立ったのは、1991年4月16日。日本の首相とソ連の最高指導者の会談はそれまで3度あったがいずれもモスクワで行なわれており、ソ連元首の来日は初めて。陸上自衛隊が撃ち鳴らす21発の礼砲の中で、ライサ夫人とともに専用機のタラップに姿を見せ、大歓迎を受けた。都内は2万2000人の厳重警備体制。すぐに皇居に出向き、天皇陛下に対して「長い時間がかかりましたが、ようやく日本に来ることができた。嬉しく思っている」とあいさつした。
日本国内では絶大なゴルビー人気だった。ソ連の政治体制と経済情勢を立て直す「ペレストロイカ」は若者さえ知るはやり言葉に。初日の宮中晩さん会を報じた当時のテレビニュースは「やはり時の人ということからでしょうか。他の国賓の時には欠席が目立つ閣僚も今日は全員が出席。晩餐会の出席者としては最高の人数となりました」とその歓待ぶりを伝えている。
晩さん会で天皇陛下が「今日、日ソ両国の各層の間に、相互の理解と信頼を深め、新たな隣国関係を築こうとする熱意が高まっている」と挨拶したように、北方領土問題解決の機運は高ま っていた。
サッチャーからの助言
「ゴルバチョフをがちがちの石頭の共産主義者とみないほうがいい」
ゴルバチョフ氏と渡り合うために海部氏が頼っていたのは、G7首脳で6歳上の姉貴分として親交を深めていた英国のマーガレット・サッチャー首相(1925-2013)だった。首脳会談で会った時、海部氏は「ソ連という国をイギリスはどう見ているんだ?教えてくれないか」と聞いたら、「鉄の女」とも言われたサッチャー氏 からそんな人物評が返ってきた。
1985年、改革派としてクレムリンの主になったゴルバチョフ氏は保守派に切り込んで次々に成果をあげていたが、それは、社会主義体制の枠内での改革であって、決してその枠の外に出ようとしなかった。それでも日英首脳は「人間的にみると嘘は言わないし、できることとできないことをきっちり区別して話す」という点で見解が一致した。
「公式会談が終わった後、サッチャーさんが『トシキ、こっちにいらっしゃい』と言って個室に招いてくれて、僕は願ってもないからサッチャーさんに北方領土問題解決に向けて、知恵をつけてほしいと頼んだんだ」
決して外交文書に記されることや、もちろん新聞にも掲載されない2人の秘密の会話。サッチャー氏はこう諭したという。
「トシキ、日本にゴルバチョフが来たら、とにかく率直に話しなさいよ」
ドイツに見出した交渉の要
そしてもう1人、ソ連という国家を相手に行うタフな交渉術についてアドバイスしてくれた人物がいた。
1990年に東西ドイツ再統一を成し遂げた新生国家初の首相、ヘルムート・コール氏(1930-2017)。このころ、海部氏は日独友好議員連盟理事長(後に会長に就任)として、毎年ボンやベルリンを訪れ、独政界との太いパイプを築いていた。もちろんコール氏もサシで話せる相手。コール氏からは日ソ関係改善の方策について「ドイツとしてできるだけのことはする」との力強い言葉をもらっていたという。
コール氏は海部氏に、悲願のドイツ統合に向け、長年、クレムリンと渡り合ってきた経験をふまえ、こう伝えた。
「東西分断国家が1つになって前進していくためには、それぞれの国の理解と協力が必要なんだ。だからドイツはソ連を大事にしている」
ドイツは冷戦時代の象徴でもある国家分断という悲劇を解消するために、国家機能が麻痺しつつあったソ連への経済援助を厭わなかった。その旗振り役こそがコール氏自身だった。
コール氏からの助言を受けた海部氏は北方領土返還を実現する扇の要は「多額の経済援助」にあると踏んでいた。
「ロシアは援助することによって、心を開かせることがありうる」
2島先行返還論者との暗闘
当時、1956年に結ばれた日ソ共同宣言に基づき、歯舞群島、色丹島の返還をまず先に目指す「2島先行返還論」を主張する、政界、外務省幹部、メディアが一塊になった勢力があった。ゴルバチョフ氏の訪日が決まった直後から、そうした勢力の人物がかわるがわる官邸を訪れては海部氏に「現状を打破するために、まず2島返還論のほうが領土問題がかたつく」と迫った。その一員の中にはこう力説する者もいた(★筆者注、あえて名前は書かない)。
海部氏はその人の言葉をこう述懐した。「彼は僕にここまで言ったよ」と前置きしながら。
「総理だから本当のことを言いますが、2段階論でいかなければだめなんです。初めから4島返還と迫ったら交渉が乗り上げてしまいます。だから初めは2島でいいのです。話がついたときに、それじゃあ後の2島を交渉しようと段階的に持っていく。4島の主権返還を撤回するのではなくて、2島返還が決まったらすぐあとに他の2島をくっつけて4島にするのです」
しかし、海部氏は決して首を縦にふらなかった。北方領土は日本が武力で奪ったり、掠めとったりしたことはない。「前提は4島一括でなければならない。領土問題は法と正義に基づく考え方で解決するんだ」。海部氏は官邸に来る2島先行返還論者にそう反論した。
こう強調する背景にはゴルバチョフ氏の腹心だった当時のベススメルトヌィフ外相が直接、海部氏に「法と正義に基づく基本的な考え方で交渉をすすめたい」と伝えてきたことも大きかった。地ならしのために、日ソ首脳会談1か月前に来日したベススメルトヌィフ氏は「この問題は政治決断すべき時にきており、わきにおいてはならない」と強調していた。
当初、組まれた首脳会談の回数は3回だった。成果を出すために大幅に延長された。多くの公式行事が縮小・変更されて、その分、首脳会談に割かれ、会談は計6回開催、対話は12時間以上に及んだ。