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<p>ピクサーの成功を支えた知られざる天才、アルヴィ・レイ・スミスとピクセルの歴史(前篇)</p><p>いまあなたが使っているフォトショップの技術は基本的に彼が生みだしたものだ。そればかりか自律走行車やARなど画像処理や機械視覚に関する技術はどれも、彼がこの世界にもたらしたと言っていい。</p><p></p><p>、ジョージ・ルーカス、そしてアレックス・シュアという無名の自称アニメーションのパイオニアといった面々だ。この革命に参加したひとりとして、スミスはわたしたちを21世紀の変わり目へといざなう。当時世界はデジタルコンヴァージェンスのとば口に立とうとしていた。 「何かもっと芸術味があることを」 アルヴィ・レイ・スミスが本書を生み出すまでに10年かかった。いや、ひょっとしたら50年かもしれない。それはこの本の始まりを、スミスが執筆を始めたときと考えるのか、あるいは本書に書かれた人生を生き始めたときと考えるのかによる。 「一度、頭の中だけですけど、アルヴィの人生を脚本にしてみたことがあるんです。実際、すばらしい映画になるんじゃないか、と思いました」とスミスの妻、アリソン・ゴプニックは言う。アリソンがスミスに出会ったのは、人生もかなり終盤に入ってからだ。「最初のシーンは、ニューメキシコの砂漠から始まります。そこに金髪の小さな男の子がひとり。まわりには馬たちがいてサボテンが立ち並んでいる。そこへホワイトサンズから発射されたロケットが地平線の彼方にあらわれ、男の子はそのロケットを見上げます」。 実際、スミスはまだ2歳にもならないころ、ニューメキシコのラスクルーセスに住んでいた。1945年のトリニティ核実験の爆発音が、100マイル(約160km)離れたその町でも聞こえたとスミスは語っている。彼の父親は当時戦地にあって不在だった。両親は結婚して子どもをつくりはしたが、お互い二度と会えないかもしれないと思っていた。父親は結局戦争から帰還し、テキサス州最北部の近くにあるクローヴィスという小さな町で家畜飼料の事業を営むことになった。 スミスは成績優秀で、特に数学に優れた才能を見せた。だがプロの芸術家である叔父と時間を過ごすのも大好きだった。ジョージ叔父さんが自分のアトリエに入ることを許していたのはスミスただひとりで、少年時代のスミスはそこで叔父さんがカンヴァスを張り、油絵具とテレピン油を混ぜあわせ、顔料を使って真っ白なカンヴァスに生命を生み出す様子を黙って眺めていた。 また、近くにあるホワイトサンズ・ミサイル実験場の科学者たちのもとを訪れたとき、コンピュータープログラミングを少しだけ体験する機会があった。ニューメキシコ州立大学では電気工学を学び、さらにスタンフォードへ進んで人工知能の研究を始める。だが彼がカリフォルニアで学んだのは、コンピューターに関することだけではなかった。 「移って次の年には、わたしの髪はかなり長くなり、ゴールデンゲート・パークでありとあらゆるドラッグやら何やらをキメてブラブラしていた」とスミスは言う。そしてLSDをやったあと、彼はこう確信したのだという。「自分はただのプログラマーには向いてない──何かもっと芸術味があることをやる必要がある」と。 芸術とコンピューターとの結婚 それが実現するまでには、もう少し時間がかかった。スミスは結局、セル・オートマトンの研究に向かう。セル・オートマトンとは、規則に基づいたシステムにより生成され自己複製を続けるデジタル有機体のことだ。博士号をとったあと、スミスはニューヨークへ移って大学で教職に就いた。そこで『サイエンティフィック・アメリカン』誌の71年2月号の表紙を飾ったセル・オートマトン・パターンのデザインも行なっている。だがニューヨークという街の快楽には馴染んだものの、大学での研究生活はスミスにとって満足のいくものではなかった。 70年代の半ば、ニューヨーク工科大学で仕事をしている間、スミスはつねにインスタントのシリアルスナックを食べていた。「たしか、いつもグレープナッツ・シリアルだった」とスミスは言う。「仕事をどんどん進めて何ひとつ見逃さないようにするために、食事はつねに大急ぎだった」 PHOTOGRAPH BY DAVID DEFRANCESCO 72年12月、スミスがニューハンプシャーのスキー場の斜面を滑降していたとき、ニット帽がずれ落ちて顔にかぶさった(のちに、その帽子の内側にあるタグには「視覚障害者が編みました」と書かれていたことに気づいたという)。そのせいで、コントロールを失った他のスキーヤーが自分の方にまっすぐ向かってくるのが見えず衝突。スミスは右大腿骨に重度の螺旋骨折を負い、それから3カ月間、胸から爪先までを完全にギプスで固定されて過ごすことになった。 「1日15時間、ノンストップで考え続け、世界全体を一から考え直した」とスミスは言う。彼がずっとやりたかったのは、コンピューターと芸術との融合だ。だがいつのまにか、彼の中から芸術が失われていた。「わたしは自分にこう言ったんだ。『アルヴィ、おまえはとんでもない間違いをやらかしたぞ』とね」とスミスは言う。 スミスはニューヨーク大学の職を辞してカリフォルニアに戻った。1年間バークレーの友人宅の床で寝て、何かが起こるのを待った。そして実際、何かが起こる。74年5月のある日、友人のリチャード・シャウプがスミスに声をかけ、自分の職場であるゼロックス・パロアルト・リサーチ・センター(PARC)へ来ないかと誘ったのだ。そこではコンピューター科学者たちのチームが、コピー機業界に君臨する企業の資金を使ってコンピューターに革新をもたらす発明に取り組んでいた。 「スーパーペイント」と呼ばれるシャウプ自身のプロジェクトはその計画にあまりなじむものではなく、周囲から受け入れられているとは言えなかった。それは世界初のインタラクティヴなカラーグラフィック・プログラムで、基本的にはカラーテレビのディスプレイにペイントブラシ・ソフトで絵を描くようなものだったが、ユーザーが画像をつくりだし、操ることを初めて可能にしたプログラムだった。 スミスはこれを見て、クスリの錠剤を思わず手から落とすほどの衝撃を受けた。「デジタルライト」の発見だった。「わたしは13時間ぶっ続けでそのプログラムをプレイし続けても、まだその場を離れたくなかった」と彼は言う。「これこそ芸術とコンピューターとの結婚だった!」 すばらしき混沌の世界 当時、コンピューターにフルカラーのグラフィックなどめったにお目にかかれなかった。たったひとつの画像をつくりだすのにさえ、フレームバッファとして知られる膨大な量のメモリーが必要だった。「ディスプレイにひとつの絵をアップするには、その絵を何かに一旦格納しておかねばなりませんでした。その『何か』が50万ドルもするんです」とPARCでパーソナル・コンピューター・チームを率いていたアラン・ケイは言う。リサーチ・センターのラボには遅くて思い通りに動かないフレームバッファしかなかったが、それが「スーパーペイント」の誕生を可能にしたのだった。 スミスはこの「スーパーペイント」とフレームバッファがあれば、アニメーションをつくりだすことができると直感した。「わたしたちは描いたものを動かすことができると、すぐに気づいた」とスミスは言う。彼はラボを訪れては、映画的なシークエンスをつくるようになった。アニメの人物が目をパチパチさせたり、目玉をぐるぐる回したりするような画像だ。 スミスはPARCに入りたくてたまらなかったが、ラボは彼をフルタイムで雇おうとはしなかった。最終的にはケイの助言を受けて、PARCの幹部たちはスミスを確保しておくローリスクな方法を編みだした。まるでひとつの装置を借りるときのように、購入注文をスミスに発注することによって報酬を支払うことにしたのだ。PARCは「専門的な労働サーヴィス」に対し、857時間分の注文を発注することになった。 まもなく、デヴィッド・ディフランチェスコというヴィデオアーティストがラボに出入りするようになった。スミスはシャウプのシステムに見栄えのいいインターフェイスを構築し、いまでは何百万もの人たちが当たり前のように使っているパーソナル・グラフィックス・プログラムの最初のアイデアをかたちにしつつあった。スミスはそのソフトウェアを使ってアニメーションをつくり、ディフランチェスコがその映像を記録した。すばらしき混沌の世界だった。 髪をポニーテールにしたスミスは、74年にゼロックス・パロアルト・リサーチセンターで働き始めた。そこでスミスは瞬時に「スーパーペイント」というデジタル映像プログラムにとりつかれることになる。 PHOTOGRAPH BY DAVID DEFRANCESCO だが、彼らののどかな楽園は長くは続かなかった。ある日、幹部の一団がスミスとディフランコに、今後はモノクロ部門を強化すると告げ、「スーパーペイント」はお払い箱になったのだ。アルヴィ・レイ・スミスに対する購入注文はキャンセルされた。 コンピューターグラフィックスだけでできた劇場用映画を それでも、スミスは自分の使命をすでに見出していた。コンピューターグラフィックスの未来を築きあげることだ。スミスとディフランコはスミスの白いフォード・トリノに乗りこむと、州間高速道路をぶっ飛ばして、あまりその分野のメッカとは言いがたいユタ大学を目指した。なんとかそこで新たな仕事を見つけようと考えたのだ。 ユタ大学のコンピューターグラフィックス研究者たちは、どちらかというとコンピューター支援による設計のような実用的なアプリケーションに特化した研究を行なっていて、スクリーン上にカラーピクセルをぶちまけるようなサイケデリックな描画技術には興味がなかった。結局ユタ大学はスミスとディフランコを雇わなかったが、彼らとまったく同じ考えをもっている人物として、最近ユタ大学を卒業したばかりのエド・キャットマルの名前を彼らに教えたのだった。 まだ30歳にもなっていないキャットマルだったが、コンピューターグラフィックスはエンターテインメントに革命を起こすという世間とは逆をいく考えを本気で信じていた。キャットマルは、ニューヨーク工科大学というあまり似つかわしくない場所に職を得ていた。響きはマサチューセッツ工科大学に似ているが、75年当時のその大学の評判は、ほぼ卒業証書を量産する三流大学というものだったのだ(その評価は現在ではかなり改善されている)。 ロングアイランドの北岸に位置するその大学は、グレート・ギャツビーのような見かけの邸宅をいくつも所有していた。大学の運営を仕切っていたのはアレックス・シュアという自称「教育起業家」で、出どころのわからない潤沢な収入源を持っていた。第二のウォルト・ディズニーを目指しているのだろうという噂をつねに否定していたが、おそらくそれを否定し続けたからこそ、人はみなシュアの目標はディズニーになることだと認識していた。 シュアは『テューバのタビー』という子どものためのオーケストラ曲をもとにしたアニメーションの制作に大金を注ぎこんでいた。そのプロジェクトに携わるアニメーターを100人も雇っており、その制作の一部を自動化してくれることを期待してキャットマルを雇ったのだった。 エドウィン・キャットマルは早い時期から、コンピューター・グラフィックスがエンターテインメントの世界に革命を起こすと確信していた。 PHOTOGRAPH BY CAYCE CLIFFORD ユタ大学の関係者から話を聞いたキャットマルはスミスとディフランチェスコに声をかけ、ふたりはすぐに飛行機に飛び乗ってロングアイランドへ向かい、彼のグループに加わる。グループの拠点は、例の邸宅のひとつのガレージの上にあった。人当たりが穏やかなモルモン教徒のキャットマルは、すでに家族もちだったが、すぐにスミスと仲良くなった。 「アルヴィは黒くて長い髭を生やし、髪を長く伸ばしていましたが、そんなことは気になりませんでした。彼は頭がよくて、人を惹きつける魅力のある人でした」とキャットマルは言う。キャットマルにとって何よりも嬉しかったのは、いつか一本丸々コンピューターグラフィックスだけでできた劇場用映画をつくるという自分の夢を、スミスが共有してくれたことだ。ふたりはその夢のことを「あの映画」と呼んでいた。 アルファチャンネル発明でアカデミー賞 スミスはキャットマルの事実上のパートナーになった。当時のコンピューターグラフィックスはコンピューター科学のへりにしがみつく継子に過ぎず、まだまだ原始的だった機械の限られた力に制限されていた。だが彼らは、やがてムーアの法則として知られることになる事実がその状態を変えることを確信しており、自分たちの研究分野を強化して、コンピューターとエンターテインメントをつなぐ要の存在になろうと考えた。 シュアも全面的に協力し、18フレームバッファを数十万ドルも出して購入してくれた。装備を整えたチームは、短いアニメーション映画をつくりはじめた。彼らの敵は「ジャギー」だった。ジャギーとは粗い描画処理のふちに現れるギザギザした端のことだ。このジャギーをなくすには、アンチエイリアス処理という技術が必要になる。この処理を行なってより高解像度のグラフィックを生み出すためには、高い計算能力を持ったコンピューターと、高い技術力が必要だった。 追加されたバッファのおかげで、スミスとキャットマルは色のコンセプトを大きく進化させることになる。それがアルファチャンネルだ。通常は赤、緑、青の基本三原色のカラーチャンネルをさまざまに組みあわせてフルカラーのパレットをつくりだすのだが、ふたりはそこにピクセルの透明度をコントロールする要素をプラスしたのだ。 オブジェクトの透明度を時間とともに微調整することにより、その動きをぼやかして、初期のデジタルアニメーションの試みを台無しにしていた不快なカクカクとした動きを修正することができるようになった。 みんないったんアルファチャンネルを使い始めると、誰もがその存在をごく自然に受け入れるようになった。「誰かにアルファチャンネルを発明したのはアルヴィだと言っても、それがどういう意味なのか、みんな理解できないでしょう。いまやアルファチャンネルは、グラフィックに関わるすべてのものの基本に最初から組みこまれているからです」とグレン・エンティスは言う。 エンティスは当時ニューヨーク工科大学で講義を受けていた学生で、のちに『シュレック』や『マダガスカル』に関わったグラフィックス会社を共同設立した人物だ。スミスと同僚たちは後日、アルファチャンネル発明の功績によりアカデミー賞を受賞することになった。これはスミスがもっているふたつの技術部門のオスカーのうちのひとつだ(もうひとつはスーパーペイントの発明に与えられたもので、シャウプとの共同受賞だった)。</p>