下津井の夜。瀬戸内の恵みに浸る…
宿に戻ると、夕食にはまだ早かったので、部屋で到着祝いにビールを抜いた。座卓とテレビ、座布団という素朴な空間が微笑ましかった。まだ春は浅いけれど、波音を聞きながら乾杯…と窓を少し開けてみる。少々肌寒い。でも、港で胸いっぱい吸い込んだ潮の香りが、部屋にも滑り込んできた。
空は群青色に染まり始めていた。走るクルマも道往く人の姿もない。静かだ。でも、不思議と廃れたような寂しさや、物哀しさはない。むしろ、瀬戸の海に抱かれるようなほのぼのとした穏やかさを感じる。それが下津井の魅力なのだろう。
夕食はY君も誘っていて、旧交を温めるのはもちろん、下津井の海の幸や瀬戸内の話をいろいろ聞いてみたいと思っていた。
さて、話はちょっと遡るのだが、例の取材の晩に、平成レンタカーの牧社長と夕食をご一緒する機会を得た。コーディネーターを務めてくれたY君も同席し、宴が始まると、さまざまな魚料理が卓を飾った。鯛の兜煮やタコ料理など、このエリアを代表する品々に混じって、関東の飲食店ではあまり見かけない魚がやってきた。ベラだ。正確にはキュウセンと呼ばれる魚でほぼ全国に分布するがこのあたりでもベラと呼ぶらしい。その仲間は非常に多く、呼び名も地方によってさまざまだ。釣りをする方なら珍しくもなんともない魚で、湘南や三浦半島でシロギスやカレイを狙っていれば、ちょくちょく竿を曲げる。
しかし、割烹はもちろん居酒屋でさえ、近似種も含め、品書きに載ることは少ない。たくさんいるのに、あまり流通されないからだ。湘南あたりで獲れるのは小さいものも多くて、要は、関東では金が取れない魚なのだろう。
この晩、私の目の前に現れたのは20㎝を超していた。腹はふっくらと膨らみ、香ばしい匂いが鼻をくすぐる。シンプルな塩焼きだったが、箸で身をほぐすと、厚みのある肉がほろりとはずれた。口に運ぶと、上品な旨みと甘みが舌に広がった。きめの細やかな身はのどごしも心地よい。皮の裏側にうっすらと乗った脂も絶品だった。このベラを塩焼きで供した料理人の気持ちが分かるような気がした。
これほど美味い魚だったとは…。いや、瀬戸内のそれはまったくの別物だった。で、半身を食べたところで、ある記憶が甦った。千葉県の九十九里で食べたイシモチだ。東京湾でシロギスなどを釣っていて混じるイシモチは身がパサつくものも多く、香りも乏しい。まずいとは思わないけれど、箸が進むものでもなかった。
が、ある時、片貝海岸に近い東金市の恩師を訪ねると、昼食にイシモチが現れた。「今朝、早起きして釣ってきたんだよ」と笑う。大きめでふっくらと身のつきもよかったけれど、内心、「イシモチか…」と、大した期待もせずに箸をつけた。ひと口食べて驚いた。
香り、甘み、品のよい脂に箸が止まらない。さっと塩を振って焼いてあったが、あっという間に2尾を平らげた。「見るかい?」と持ってきたクーラーボックスにはまだ3尾残っていて、東京湾で見るのとは大違い。光の角度でパールピンクに輝く魚体は肌艶が見事で、手にとると身の割に持ち重りがした。
そんなことが甦りながらベラを完食…やがて、小ぶりなメジナの煮漬けや、カサゴのアラを揚げたもの、シロギスなど、身近な魚が次々と卓に並んだ。鯛やタコもよかったけれど、こういった魚たちが抜群に美味かった。
「瀬戸内に来たらね………雑魚を食べなきゃだめなんです。雑魚が美味しいんです」。目の前の魚に無我夢中の私を見て牧さんが微笑んだ。
雑魚……その言葉に込められた瀬戸内の人々の誇り、愛情。あの晩の感動は今も鮮やかに甦る。
宿の夕食は、下津井の魚介が出るということで楽しみだった。山奥の宿で、鮪の大トロやヒラメが現れるような目には遭いたくないし、それではここを選んだ意味がない。
Y君が現れ、3人の宴が始まった。この晩は下津井タコが、さまざまな料理が少量ずつ運ばれてきた。その合間にやはり瀬戸のさりげない魚介が、さりげない料理で供される。再会を喜んでくれたY君の笑顔もあって、素敵な夕餉となった。あの晩の料理店に比べればずっと素朴でカジュアルだったが、それがまた心地よかった。
帰途につく彼を見送って外に出ると、月が美しかった。いつのまにか無風になって、静寂が港を包んでいる。ちょっと散歩したいなぁ…と思ったけれど、かなり進んだ酒のせいで足がおぼつかない。今になって、なんともったいないことをしたのだろう…と悔いたりするのも、我がぐうたら旅らしい顛末(笑)。次の楽しみにとっておこう。
この小さな町の魅力が、万人に理解されるものではないことは百も承知だ。コンビニも信号もない静かな港町。「何もないじゃん…」と言われれば、素直にうなずくし、黙って微笑むしかない。夜中にちょっと出てカップ麺やコンビニスイーツを買うこともできないし、カラオケスナックだって徒歩では行けない。そりゃそうです。だから来たのだもの(笑)。
しかし、それでこそ味わうことのできる至福のひと時がここにはある。人気観光サイトの上位に並ぶようなメジャー観光地では決して得られることのない歓びがある。
愛車を駆って、思いつきに身を任せ、あちらこちらに寄り道し、気まぐれな時間を過ごしながらやってきた瀬戸内の港町。これだからぐうたらワゴン旅はやめられない。
【筆者の紹介】
三浦 修
BXやXMのワゴンを乗り継いで、現在はEクラスのワゴンをパートナーに、晴耕雨読なぐうたら生活。月刊誌編集長を経て、編集執筆や企画で糊口をしのぐ典型的活字中毒者。
【ひねもすのたりワゴン生活】
旅、キャンプ、釣り、果樹園…相棒のステーションワゴンとのんびり暮らすあれやこれやを綴ったエッセイ。