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<p>太陽と月の観察で決まる暦。国家の時間を支配するのは暦を作る人!?(tenki.jpサプリ 2022年02月09日) – tenki.jp</p><p>【太陽と月の観察で決まる暦。国家の時間を支配するのは暦を作る人!?】 2月も中旬へ。「立春」を過ぎてもなお厳しい寒さは続いています。このような中でも春..</p><p>2月も中旬へ。「立春」を過ぎてもなお厳しい寒さは続いています。このような中でも春を待つ気持ちは少しずつ高まっているのではないでしょうか。それはきっと心に『歳時記』を持っているからなのでは?1月から12月の12ヶ月を1年として、これを基準に私たちは生活をしています。一方で「立春」から始まる季節のひとめぐりも大切にしてきました。私たちが生活の糧として大切にしてきた『歳時記』の基となった「暦」について今日は少し深めてみませんか。</p><p>太陽と月が交互に顔を出し昼と夜がやって来る。これはその時間に違いこそあれ、地球のどこでも変わることはありません。地球上で起こった文明の場所に応じて、一つは太陽を中心とした「太陽暦」が作られ、またもう一つ月の満ち欠けをひと月とした「太陰暦」が生まれました。 日本には6世紀に中国の暦が朝鮮半島を経由して入ってきたと『日本書紀』にあります。これを土台に大和朝廷は暦を制定し「陰陽寮(おんみょうりょう)」が管理の任を負いました。暦博士や天文博士といった専門家を置き、天体観測、気象観測、暦の算定、占いなどを行っていきました。日本で暦が定まったのは平安時代といわれています(諸説あり)。中国の宣明暦(せんみょうれき)をもとに貞観4(862)年に定められました。 当時の暦がどのようなものだったかというと、日ごとに季節、星宿、干支、吉凶、禁忌などが具体的に詳しく書かれたもので「具注暦(ぐちゅうれき)」と呼ばれました。この暦は朝廷の政治が行われる場で用いられ大切にされました。「暦」がいかに日々の政治の動きに大きく関わっていたかを知る資料として『御堂関白記』などが知られています。これは平安時代にその権力を最大にした藤原道長が日々の行動を細かく「具注暦」に書き記したもので、現在でも歴史を知る上での第一級史料となっています。 江戸時代に入ると天文学が発達し、暦の動きと天体の動きの不整合から800年以上続いた暦をあらためる動きが起こります。日本人による初めての暦法を作りだした渋川春海(しぶかわはるみ)により、貞享2(1685)年に「貞享の改暦」が行われました。その後も西洋の天文学を取り入れるなどして天保15(1844)年の「天保の改暦」まで4回の改暦が行われました。 暦を管理することは、一国の時間を支配することとして、時の権力者にとって大変重要だったことがわかります。やがて暦はしだいに政治を動かす人々から一般の人へも届くようになっていきました。大きな要因に平安時代に平仮名が作られたことがあります。政治の世界はすべて漢文で書かれていましたが、それが平仮名で書かれるようになり広く使われるようになっていったということです。後の人々は暦をどう楽しんだのでしょうか、興味が湧きます。 庶民が使っていた「暦」って、どんなもの?</p>