<p>「聾者は障害者か?」若者の問いかけ|サイカルジャーナル|NHK NEWS WEB</p><p>「漠然と見ていた世界がぐらりと揺らぎ、反転した」 ある作家の感想です。 生まれてからずっと耳が聞こえない彼女は、幼いころ健常者のことをむしろ「普通ではない」と思っていました。 最優秀作 全文を掲載しました。</p><p></p><p>そうしたなかで最優秀の「文部科学大臣賞」に選ばれたのが、筑波大学附属聴覚特別支援学校の3年生、奥田桂世さんの「聾者は障害者か?」だ。 まずは読んでもらいたい。 奥田さんが読んだ書籍は、脳科学者の中野信子さんと漫画家のヤマザキマリさんの共著・「生け贄探し 暴走する脳」だ。 「聾者は障害者か?」 多様性を認め合う、多様性を尊重する社会の実現といったようなフレーズを最近よく目にする。しかし、これらのフレーズは私たち人間にとって、矛盾している言葉なのではないだろうか。脳科学者である著者の中野さんは、「ヒトは、異なる内面、異質な外見を持った者を、執拗に排除しようとする。集団は異質な者をどうにかして排除しようと足掻く。これは集団を作ることで生き延びてきたヒトの特有の脳のクセなのである」という趣旨のことを述べている。 私は、中野さんが述べた人間の特性について正直驚いたが、この本を読んだ後、耳の聞こえない自分の存在や生き方について、見つめざるを得なかった。 私は先天性の聾(ろう)で、両親も祖父母も聾者という家庭で育った。学校も乳幼児期からずっと聾学校に通っていた。だから、幼少期は、健聴者のことをむしろ「普通ではない」と思っていた。しかし、聾学校小学部に上がると近隣の健聴者と公園でよく遊ぶようになり、学校でも地域の小学校と交流する機会が増えた。その経験によって、本当は自分の方が普通ではないのだと自覚するようになった。それでも、自分のことを可哀想だと思う気持ちは全く生まれなかった。 当時はその理由が分からなかったが、「聾文化」という言葉を知った今ならば答えられる。「聾文化」とは、聴覚という感覚を持たないことで発生した手話という言語や、視覚と触覚を重視した生活から生まれた文化である。私は、聾者というものは、健聴者とは異なる文化を持った、「少数民族」のようなものだと思えるようになったのである。 もしも、健聴者が生きる社会と聾者が生きる社会にはっきりとした境界があり、お互いに関わりを持たなかったら、社会で言われる「聴覚障害者」は全員、自分のことを「障害者」だと思わず、「聾者」という普通の人間として生きていたのではないだろうか。 しかし、現実はそうではなく、現実社会で生きていくためにはどうしても健聴者と共生しなければいけない。さらに、日本に住む聾者は「日本人」でもある。日本に住んで社会参加していくからには、日本語を習得し、様々な知識や技能を学び、日本文化に対する理解を深めることが必須である。 私の場合は、日本語とは異なる独特の語順や文法が存在する「日本手話」という全く別の言語を、第一言語として身につけた。だから、日本語を習得するためには、手話等が使える健聴者に教えてもらったり交流したりしなければいけない。また、様々な文化に触れたり学んだりしなければいけない。そのような教育や社会生活の場面で、音や音声の情報が使いにくく健聴者の行う方法だけでは学ぶことが困難なため、独自の方法が活用されるのだ。聾者としてだけではなく日本人としても生きていくために。そのことが「障害」「支援」という名称で語られ、健聴者に協力を求めることになる。そして、社会は私たちのことを「聴覚障害者」と呼ぶ。健聴者が中心の社会に足を一歩踏み入れたとたん、周りは私たちのことを異質な者と理解し、独自の方法で教育やコミュニケーションがなされ る「障害者」と名付けるのである。 これは、最初に述べたヒトの特有の性質によるものなのだろうか。最近は法律が施行され、目立った「差別」や「排除」は少なくなってきたが、「可哀想」「大変だね」と上からの目線で見られることはなくならない。その要因は、他人を引きずり下ろすことで快感や安心感を得られる「シャーデンフロイデ」という、ヒトが根本にもつ性質にあるのではないだろうか。「障害者」と名付け、自分の持つ優位性を自覚して安心する心理が全体的に働くのかもしれない。「障害者」という言葉が消えてなくならないのはそれが原因の一つにあるのではないだろうか。 私は自分自身を「聴覚障害者」ではなく、「聾者」としてのアイデンティティを持つ、ひとりの人間として誇りに思っている。その一方で、補聴器や人工内耳を装用すれば、個人差はあるが音声言語でやり取りできる人もいる。だから、聞こえない人のタイプの違いを無視して「聴覚障害者」とひとくくりにして呼び、区別しているのは何だか乱暴なことにも思える。 私たちの住む社会には、本当に様々な人間がいると思う。自分たちと異なる人間を「異質なもの」として敬遠したり排除したりすることを「ヒトの脳はそういうもの」と当然のように考えて放置していたら、私たちの未来は明るくない。異なった文化を持っていても、異質であっても、何であっても、この世界に生きていることをお互いに受け入れる、尊重し合う姿勢が必要だ。そして、共に生きていくための合理的な配慮が普通にできる人間になるべきである。「障害者」という言葉を考え直すことが、「多様性」を維持する社会を実現する第一歩ではないかと強く思う。 「世界の見え方変わる」</p>